クルド人難民

コラム架橋

 私が初めてクルド人と出会ったのは、2004年だったと記憶している。何の集会だったのかは記憶していないが、某駅前ロータリーで集会をしていると、粗末ないでたちの外国人の小さな女の子2人が私の前にやってきて用紙を突き出した。それは「クルド人の難民認定を要求する」署名用紙だった。
 なぜ2004年だったと記憶しているのかというと、その少し後に中越地震が発生していたからである。私はその時、文京区民センターでの集会に参加しており、その隣の部屋では「クルド人難民支援の集まり」が行われていたことを記憶していたからだ。会場も相当の揺れだったのだが、日本の人たちは平然と集会を続けたのとは対照的に、隣の部屋からは女性の「キャー」「グワッー」というこの世も終わりかと思わせるような悲鳴が上がった。この差は「慣れ」だけではないようだ。建築物に対する「確信の差」なのだろう。「崩れる」と思うのか、そう思わないのかということだ。
 当時、クルド人をめぐる状況などは詳しくは分からなかったが、少なくともイラクのサダム・フセインによる5000人のクルド人住民毒ガス虐殺のことは、鮮明に記憶に残っていた。また2003年には、米軍などによるイラクへの軍事介入によってイラク戦争も勃発していた。そうした事情から日本に逃れてきて、難民申請しているのだろうとすぐに理解することができたのだった。
 快く署名をすると、女の子はパッと右手を差し出して日本語で「おカネ」と言うのである。あたりを見渡すと、少し離れたところでヒジャブを着けた母親と思われる女性が私の方に向かって軽く会釈をした。小さな子供にお札を渡すわけにもいかず、小さな手に100円だけ握らせることにした。
 先日、トルコ国籍のクルド人が多数生活しているという埼玉県の蕨市で行われた在日クルド人との連帯集会に参加した。ネットでの予約制だったようだが、取材だと言って名刺を渡してねじ込ませてもらった。150人ほどの会場は満杯だった。
 集会の詳しい内容は「集会報告」を読んでほしいのだが、トルコにおけるクルド人への弾圧は、来年に総選挙と大統領選挙を控えて強まっているようだ。クルド人はトルコの人口の約15%を占めている。クルド労働者党(PKK)関連ばかりではなく、クルド語で会話しているだけで警察官から暴行を受けるといった弾圧も平然と行われている。政権から激しい弾圧を受けてきたクルド系と左派が結集する国民民主主義党(HDP)は、現在、600議席のトルコ国会で56議席を占めて第3党として踏ん張っている。しかし強まる弾圧のなかで、相当厳しい選挙戦になるだろう。
 また9月16日に、ヒジャブの着け方が悪いとイランの風紀警察に拘束されて虐殺されたマフサ・アミンさんは、イランで暮らすクルド人だった。宗教保守強硬派の政権に対する反発と抗議の波が広がっている。
 岸田政府はウクライナからの「避難民」はあくまでも「特例措置」だとしているが、現在の治安最優先の入管体制を解体して、国際的な人権基準を順守できる難民・移民認定機関を一日も早く創設しなければならない。
(星)

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