ウクライナで戦死した日本人青年

コラム架橋

 「かけはし」の第2737号のコラム「架橋」に書かれていた「国際旅団に参加したひとりの日本人」を読んで、20歳の時に東拘でひとりめちゃくちゃ感動したことを思い出した。私は東拘ではじめてトロツキーの「スペイン革命と人民戦線」を読んだ。それでスペイン革命についてもっともっと知りたくて、友人にスペイン革命を書いた本を差し入れてもらった。「誰がために鐘は鳴る」の小説から、エレンブルグまで計10冊も読んだように思う。その中に日本人の著作もあり、マドリードの近郊で国際旅団に参加した日本人の青年が死んだことを知った。ジャック・白井と呼ばれていたことは今回のコラムで初めて知った。
 日本人の青年がスペイン革命に身を投じたという事実にえらく感動したし、私にとって想像を超えた事実であった。この一時期、出所したらマドリードに行こうと本気で考えたし、熱に浮かされ続けた。私は三里塚の3・26闘争の中で、国際旅団に参加する熱情と信念を持った仲間たちに出会った。誰あろう故新山幸男君を筆頭に。彼は最期まで千葉の牛久病院で全身に包帯を巻きながら、火傷の痛さと闘っていた。彼は死ぬ3~4日前に、「私の実家も農家で、兄は朝から田んぼに出て仕事し、私を大学に送り出してくれた。三里塚で政府と空港公団の暴力を見ると、実家の兄と母親がその暴力にさらされているようで耐えられなかった。私の三里塚闘争の原点は、これです」。横になっているベッドから私に話してくれた。この気持ちこそ、国際旅団に参加している青年の気持ちだと思ったことを今でも覚えている。
 そして11月9日の朝日新聞は、コラム「架橋」の(雨)氏に応えるように、「ウクライナでロシアとの戦争に参加した20代の邦人男性が、現地時間9日に死亡したことを確認した」と小さな記事で報じた。そして11月12日の朝刊は、死亡した彼のカメラに残っていた写真とともに「日本人志願兵が見たウクライナ激戦地」という中見出しで大きく取り上げた。記事によると「ウクライナ人と外国人混成部隊に所属する男性は、激戦地だったイジュームで約3カ月間従軍した」。「なぜ志願兵になったのか」という現地のジャーナリストの質問に「女性や子どもが大勢殺されているのを報道で知って、助けたいと思った」「自分は独身で恋人や子どももいないし、二度と帰れなくなってもいいと思ってウクライナに来た。ウクライナが勝利するまで戦い続けるつもりだ」と答えている。
 彼はウクライナに来るまで私とまるで同じで映画「ひまわり」の映像でしかウクライナは知らないと語っている。かつてスペイン革命に参加した国際旅団の青年たちと同じだ。彼の持っている信念がウクライナに向かわせたのだ。テレビで観る限り、イジュームは首都キーフと違って日本でいえば地方のちょっとした街に過ぎない。彼はそんな初めての地で戦っていたのだ。
 (雨)氏はコラムの最後に「ロシアとの停戦合意を声だかに主張する人がいるが、……ウクライナをネオナチと呼称するロシアこそファシズム国家である」と語っている。私は彼の意見に賛成である。ウクライナに侵攻するロシアを支持する自称左翼がなんと多いことか。あきれているのは私だけか。     (武)

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