「父が歩んだ道は」

コラム「架橋

 年齢を重ねるにつけ他界した父を想いだす。断片的な記憶を繋いでみても埋まらない空白。福島県飯舘村明治42年(1909年)生れ。尋常高等小学校をでて山を下りた、と言うことは聞いている。移動手段が「馬車」「徒歩」の時代に山を下り、どこで、どのように生きてきたのかはほとんど知らない。
 コメの収穫を終えた頃に開かれる「秋の市」等で近郊の村々から集まる人を相手に売り手・買い手の掛け合いで「瀬戸物」を売りさばく「叩き売り」が父の生業だ。
 小学校高学年になった頃の冬。久しぶりに帰ってきた父と二人で炬燵に入っていた。突然、父が笑顔を浮かべ「いいが!ちんおもうにわがこうそこうそう・・・」と諳んじた。「昔、小学校で毎日言わされて、怒られたり、廊下に立たされたりしながら一所懸命覚えた」と何度か諳んじて見せた。
 なんだかわからないお経のような「チンオモウニコウソコウソウ」の言葉が耳に残った。「教育勅語」だと知ったのは、組合に加入し青年運動に参加した時代だ。父は、徴兵検査「乙種合格」だったと話していた。
 歌集「プロレタリア短歌」に「見ろ、誰も びくびくしながら 並んでゐる みんな合格を 怖れてゐるんだ」(1930年藤野武郎)と。すべての若者が抱いていた感情だろう。
 5尺に満たない小さな体、年齢も高い父の「乙種合格」は、「死」を美徳とし猫も杓子も動員し「本土決戦」を叫んだ「大日本帝国」の断末魔の姿に思える。毎日、毎日格納庫から木製飛行機をロープで引っ張って滑走路に並べる「猫だまし作戦」の話や、油の入ったドラム缶にマッチの擦りカスを投げ入れる「度胸試し」。ドカーンという音と共に兵隊が吹き飛んだという。敗戦間際、自暴自棄に陥った兵隊の刹那的な話だ。真っ赤な炎が街を焼けつくす中を夫婦で必死に逃げた話。
 一つ一つの言葉が私に大きな影響を与えたのは確かだ。安保関連三文書を改定し、台湾有事を叫び敵基地攻撃能力・軍備拡張に邁進し抑止力こそ戦争への備えと突き進む。木原防衛大臣は過去に「教育勅語の廃止で道義大国日本の根幹を失った」と語り、国会では「政治家の思想信条を閣僚の立場で答えられない」と誤魔化す。
 人権否定の差別発言を繰り返す差別排外主義者杉田水脈議員等々。憲法99条の「国会議員は憲法を尊重し擁護する義務を負う」を否定する輩は議員たる資格なしであり、留まらせてはならない。
 恐怖のなかで叩き込まれた「教育勅語」は父の人生にどんな影響を与えたのだろうか?「子どもを怒ったり叩いたりするな」「子どもには腹一杯食べさせろ」「子どもの好きなようにさせろ」三人の子が語る父の言葉と想い出話。
 今、思うと故郷を離れ生きてきた父は、教育勅語を否定し「自由」へのあこがれがあったのだろう。私にとって素晴らしい父だ。だからこそ言う。︿岸田首相!﹀私を勝手に「オールジャパン」の一員と呼び、括ることを断固拒否する。    (朝田)
                         

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