追悼 湯川順夫同志

湯川さんの思い出(関西時代と国際部時代)

喜多幡 佳秀

 トロツキー研究所、ポーランド資料センター、ATTACジャパンそして地域のホームレスの人びとへの支援運動などで活動していた湯川順夫同志がさる7月6日にガンで亡くなった。享年79歳。7月9日に三鷹市のやすらぎ市民斎場で葬儀が行われた。湯川同志は、京都大学時代に第四インターナショナルの運動に参加し、1960年代後半のラディカルな青年・学生運動を担うと共に関西地方委員会の指導部として闘った。湯川同志はその後、上京して第四インターナショナル日本支部の国際活動の中心を担った。湯川同志はマンデルやベンサイド、アシュカルなどたくさんの翻訳を行い、その時々に問題になっている本を紹介した。トロツキー研究所では事務局長を担い、「トロツキー研究」の発行に尽力した。そして、三鷹の夜回り「びよんど」の代表を担い、野宿者支援を精力的に行った。次号に東京での活動の様子を伝える追悼文と死ぬ間際まで書いたウクライナ連帯についての文章や翻訳した文章を掲載する予定。(編集部)

 7月6日に湯川順夫さんが亡くなったことを友人から聞いた。癌で闘病されていたことは聞いていたし、かなり危ないことも知らされていたが、見舞いに行くこともできないままだった。
 湯川さんとの付き合いは私が大学に入学した1968年以来で、1978―83年には第4インター日本支部(当時)の国際部の活動で日常的に議論していた。私が関西に戻ってからは会う機会も少なくなったが、湯川さんの精力的な翻訳活動には驚嘆していた。トロツキー研究所の事務局長としての業績や地域でのホームレス支援の活動については頭が下がる。
 私が社青同国際主義派(JRCLの学生組織)に加盟したころ、湯川さんは大学院に進んでいて、それほど頻繁に会ったわけでもなく、学究肌で、超然とした印象だった。あとで先輩たちの話を聞いて、学部時代は「社学同レフト」(JRCLのフラクション)で、同学会(全学自治会)でも活躍していたことを知り、意外だった。そういえば後年も、論争になった時にはその当時の党派間の論争を思い出させるようなロジックや修辞を多用していた気がする。
 湯川さんと日常的に顔を合わせるようになったのは1970―71年ごろからで、JRCL関西地方委員会での「急進主義派」(学生)と「反急進主義派」(旧指導部)の主導権争いに決着がつき、旧指導部が退き、中間的な立場にいた湯川さんが関西地方委員会の議長に就任し、私も事情がわからないまま関西書記局に加わるようになってからである。学究肌で、超然とした印象はその時期にも変わることがなく、寸暇を惜しんで経済学や西洋思想、ソ連・東欧に関する文献を熱心に読んでいたのを覚えている。それでもこちらから話しかけると必ず相手をしてくれ、真面目な顔で冗談を言ったりしていた。今から思えば、当時の読書はそのままその後のライフワークになっていたのだろう。急進主義的な気分が抜けない私は、湯川さんのそんな超然とした活動姿勢に苛立って、いろいろと失礼な言動を繰り返したことを覚えている。ちなみに湯川さんの「中間的な立場」は、今から思えばその当時だけではなく、その後も一貫していたのかもしれない。両極端を排するという点では、動揺する中間主義ではなくブレない中間主義、そんなスタンスがあってもいいと納得してしまう。
 ある日、私が事務所の電話番をしていた時に、湯川さんのご家族から電話がかかってきた。聞くともなく聞いていると、湯川さんは「もういいです」と言って電話を切った。どうやらご家族からは大学院の卒業の見通しについて迫られていたようで、湯川さんにとっては学究生活への道をあきらめる「人生の一大決断」だったのだろう。
 湯川さんは1976年に国際部の専従として東京に移住。クセのある我儘なスタッフを束ね、いつも両手に大きなカバンを持って、時間があればどこででもコツコツと原稿用紙を埋めていた。時には気分転換に事務所に近い公園でキャッチボールをしていたが、あの温厚そうな表情に似合わない豪球を投げてくるので恐かったこともある。
 国際部当時、湯川さんから「娘が熱を出したので、今日の会議は欠席させてほしい」という連絡を受けたことが何度もある。「またか」と思ったこともあるが、後年、私も娘の病気で予定をキャンセルすることが続いていた時、「俺のところもそうだったよ」という湯川さんの一言に救われたこともある。
 1983年に、私が専従をやめて大阪に戻るつもりであることを湯川さんに伝えた時は、「俺も専従をやめるつもりだったのに」と動揺していた。当時、先に専従体制を抜けて事業活動を始めていた先輩の世話で翻訳の仕事が確保できたので、いっしょにその仕事をしながら活動を継続しようということで、私の計画を認めてもらった。とはいえ技術翻訳に必要な知識も経験もない私たちは、辞書と想像力と度胸を頼りになんとか生計を維持した(トンデモ訳で顧客に迷惑をかけたことも多々あるだろうがもう時効である)。
 そうこうするうちに、湯川さんは「本来の」活動の領域を広げていった。それについては他の同志による追悼文に詳しいし、その中には私の知らなかったことも多い。
 湯川さんの逝去を伝える私のフェースブック投稿に元メンバーたちもコメントしてくれている。多くは1970―80年代に共青同の中心を担った人たちだ。湯川さんが若い人たちに慕われていたことがわかる。若い人たちを相手にトロツキーの理論や世界情勢についてうれしそうに話していた顔が今でも思い浮かぶ。
 やり残したことも多いでしょうが、永年、ごくろうさまでした。心からご冥福をお祈りします。

ありし日の湯川順夫さん
湯川順夫さんが翻訳した本の一部

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