玉城デニー知事勝利で沖縄の自立と発展を

沖縄を再び国家の道具にするな
沖縄報告 8月14日

沖縄 K・S

8.15「終戦の日」を迎えて

沖縄県民の意思と権利を尊重する日本社会たれ!

戦後77年の8月15日がめぐってきた。大日本帝国のアジア侵略は、明治の琉球併合に始まり昭和の沖縄戦で終わりを告げた。「神国」を標榜しアジアの盟主になることを目指して膨張した天皇制日本は元の島国に戻った。結局得たものは「国体護持」、天皇制の維持だけだった。
 沖縄は、西太平洋に張り出した日本の領土となり、南方植民地政策の前進基地となり、日米戦争で本土を防衛する防波堤となり壊滅した。県民は、沖縄がふたたび悲惨な戦場となることを望んでいない。しかし、日本政府は「侵略やミサイルから沖縄を守る」と称して、沖縄島の巨大な米軍基地を維持し、琉球列島に自衛隊のミサイル基地を新たに配備している。振興予算という目くらましと共に、沖縄はがんじがらめの軍事要塞とされている。
 8月15日の初心を思い起こそう。再び戦争をしないと誓った筈ではないか。沖縄を軍事の道具として縛り付け再び戦場にして構わないという政治に終止符を打とう。

国交相裁決の取り消しを求めて県が提訴

 沖縄県は8月12日、防衛省の辺野古埋立設計変更申請を不承認とした県の処分を取り消した国土交通相裁決は違法だとしてその取り消しを求めて、福岡高裁那覇支部に提訴した。この国交相裁決については、国地方係争処理委員会が7月12日、沖縄県の審査申し出を却下していた。防衛省・国交省・係争委の三つの組織を使った内閣の政治の私物化に直面して、沖縄県は裁判の場に訴えたのである。玉城デニー知事は「過去2回の知事選挙や県民投票で示された辺野古埋立に反対する県民の民意に従い全身全霊で応えたい」と語った。
もう一つの係争委案件である「防衛相の変更申請を承認せよ」という国交相の是正の指示に関しては、8月29日を期限として係争委の結論が出される予定だ。国交相は今回の改造内閣でも斉藤鉄夫(公明党)である。辺野古新基地建設において沖縄県民を踏みつける先兵の役割を果たしていることを全国の創価学会のみなさんは直視してほしい。

2022.8.3 琉球セメント安和桟橋入口ゲート。辺野古に土砂を運ぶな!

3人が立候補予定の県知事選挙

 沖縄県知事選挙が9月11日に迫った。予定立候補者は3人。オール沖縄の玉城知事に対し、自公は4年前と同じく佐喜真淳元宜野湾市長を立て、政府の「辺野古唯一」に呼応して「辺野古容認」を前面に打ち出した。キャンペーンの柱は「危機突破」である。政府の責任を県政のせいにすり替えて玉城知事を攻撃する方法は、「県政不況」をキャンペーンし大田昌秀知事の三選を阻んだ1998年知事選挙を思い起こさせる。もう一人は、元維新の下地幹郎前衆院議員で、「大浦湾の埋立は行わず、普天間の訓練は馬毛島に移転」と主張している。
 琉球新報2022年8月12日号には、三者による紙上座談会の内容が詳しく報道されている。知事選は辺野古と沖縄の将来をめぐり熾烈な闘いになる。玉城知事は、辺野古新基地ストップ!普天間基地の一日も早い閉鎖、PFAS汚染源の調査できれいな水を取り戻し、平和で誇りある豊かな島へ!をスローガンとしている。8月25日の告示日翌日からは期日前投票が始まる。玉城デニー知事の再選で、基地のない平和で安心できる沖縄、沖縄の自立と発展を実現していくために、全県各地のうまんちゅの会は全力を尽くす覚悟である。

沖縄戦に関する二本の映画
『島守の塔』『乙女たちの
沖縄戦~白梅学徒の記録


 この8月、沖縄では、沖縄戦に関する映画が2本上映された。一つは、戦前最後の沖縄県知事・島田叡(あきら)に焦点をあてて戦争の実態を浮かびあがらせた『島守の塔』。もう一つは、中山きくさん・武村豊さんら当時の二高女(沖縄県立第二高等女学校)生徒のインタビューと再現ドラマで白梅学徒隊を描いた『乙女たちの沖縄戦~白梅学徒の記録~』である。二つの映画はともに沖縄戦を舞台に「戦争と命」を描こうとしている。各地で上映の機会があればぜひご覧になってほしい。
 『島守の塔』は、沖縄戦の実写フィルムを用いながら戦場のリアルを描きつつ、登場人物の設定と行動・発言などフィクションを組み立てた映画である。「天の岩戸戦闘指揮所」の看板や飲んだくれの長参謀長が壕の中で座り込んでウィスキーを飲んでいる場面などは事実に基づく描写と言える。
 歴史的事実として見るとき、島田知事は、学徒隊の名簿の提出や北部疎開で軍に協力するなど、沖縄戦を遂行する日本政府の行政の歯車として、軍官民共生共死の一体化を体現した人物だったと言える。映画では、島田知事が声を張り上げて「生きろ!生きぬけ!」と叫び、知事の世話役の県職員の女性が犬死せず生き残ったことをストーリーの柱として描いている。沖縄戦の現実は逆だった。日本軍は、青壮年男子の疎開を許さず県民を戦場に総動員し、敗北してなお米軍に対する投降を許さず戦闘で死ぬか自ら命を絶つことを強制した。だからこそ、「生きろ!」という言葉は希望を与えるし、命の大切さを訴えるものとなるのだろう。
 映画は入口だ。映画をきっかけに、沖縄戦の歴史、その背景などにさらに関心を持っていくことになればよいと思う。宮城喜久子さん『ひめゆりの少女』(高文研、1995年)や宮良ルリさん『私のひめゆり戦記』(ニライ社、1986年)をはじめ、県民の戦争体験や証言にじかに触れてほしい。
 『乙女たちの沖縄戦』の再現ドラマで舞台となった第24師団第一野戦病院新城分院(ヌヌマチガマ)は、八重瀬町にある全長500mにおよぶ自然壕である。コロナが広がる3年前まで、このガマで平和ガイドを務めたことが多分200回くらいある。6月4日、野戦病院閉鎖・学徒隊解散にあたり、歩けない負傷兵を処置=殺害した現場である。処置の方法は、再現ドラマにあったように、青酸カリの粉を飲ませ、飲めない者にはピストルを使用した。
 ひめゆり学徒隊が勤務した南風原の陸軍病院壕でも、5月末の撤退にあたって、動けない負傷兵を青酸カリで処置した。ここでは、練乳(コンデンスミルク)に青酸カリを混ぜ「天皇陛下からの賜りもの」と言って飲ませた。まことに日本軍は兵士に対しても冷酷だった。
 白梅学徒隊にさらに関心のある方には、映画中に紹介された新里堅進作・画『白梅の碑―野戦病院編および戦場彷徨編』(クリエイティブ21、2002年)、『きくさんの沖縄戦』(沖退教女性部、2013年)の他に、白梅同窓会編『白梅―沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』(クリエイティブ21、2000年)をお勧めしたい。

犠牲を拡大した「軍官民共生共死」

 島嶼での地上戦となった沖縄戦は悲惨の極限だった。牛島司令官・長参謀長の第32軍(沖縄守備隊)は「60万県民の総決起・軍官民共生共死の一体化」方針のもと、軍の住居・食料・軍労務にわたって協力を強制するだけでなく、徴兵年齢の19才への引き下げ、ほとんどすべての男子の防衛召集、地域や学校からの少年少女の戦場への動員を進めた。すべての中学校、高等女学校、各種専門学校、師範学校の生徒が鉄血勤皇隊や通信隊・看護隊として合わせて2000人以上が動員され半数以上が死亡した。そのリストは次のとおりである。
師範学校男子部(師範鉄血勤皇隊)
県立一中(一中鉄血勤皇隊・一中通信隊)
県立二中(二中鉄血勤皇隊・二中通信隊)
県立三中(三中鉄血勤皇隊・三中通信隊)
県立農林学校(農林鉄血勤皇隊)
県立水産学校(水産鉄血勤皇隊)
県立工業学校(工業鉄血勤皇隊)
那覇市立商工学校(商工鉄血勤皇隊・商工通信隊)
開南中学校(開南鉄血勤皇隊・開南通信隊)
県立宮古中学校(宮古中鉄血勤皇隊)
県立八重山中学校(八重山中鉄血勤皇隊)
県立八重山農学校(八重農鉄血勤皇隊)
師範学校女子部(ひめゆり学徒隊)
県立一高女(ひめゆり学徒隊)
県立二高女(白梅学徒隊)
県立三高女(なごらん学徒隊)
県立首里高女(ずいせん学徒隊)
積徳高女(積徳学徒隊)
昭和高女(でいご学徒隊)
八重山高女・八重山農学校女子(八重山高女学徒隊・八重農女子学徒隊)
 沖縄戦には日本という国家の沖縄県民に対する軽視・蔑視・利用・傲慢が満ちている。沖縄をふたたび国家の道具としてはならない。戦場にしてはならない。悲惨な沖縄戦から学ぶことは、沖縄を非武装の島として非軍事化しアジアの平和交流の砦とすること以外にはない。
 
 石川真生さん大琉球写真展

「絵巻2022」

 旧盆恒例の石川真生さん「大琉球写真絵巻」が8月9日から14日まで、パレット久茂地6階の那覇市民ギャラリーで開催され、新作のパート9と昨年のパート8、合わせて46点が展示された。今年の新作は、自衛隊基地建設がすすむ宮古・石垣・与那国の各島での人々の暮らしと抵抗の姿をとらえた作品である。
 私たちが今年2月、フィールドワークで小浜島・石垣島を訪れた際、於茂登(おもと)岳ふもとのミサイル基地建設現場を案内していただいた「基地いらないチーム石垣」のみなさんもバッチリ登場していた。宮古島で根気強く自衛隊基地に反対する運動を続けるみなさんや与那国島で基地に頼らない暮らしを立てるみなさんの懐かしい顔を見ることもできて、感慨深かった。大きな写真の下にはそれぞれ、主に被写体になった人々が書いた説明文が日本語と英語で添えられている。参加者の多くは写真を見た後かがみこんで詳しい説明文を読んでいた。
 石川真生さんがどういう思いで写真絵巻展を継続しているかについては、展示にあたってのあいさつ文をご覧いただきたい(別紙)。私は真生さんを高校生のころから知っている。来年4月に70才になるというが、一途で純粋、行動力のある所はいくつになっても変わらない。真生さんは「自分にできるのは写真だけ、だから写真をやりぬく」と腹を決めている。腹をくくった人は強い。いつまでも元気に、写真という刃を権力者の喉元に突きつける仕事をやり続けてほしい。

2022.8.12 石川真生「大琉球写真絵巻パート9」。宮古島。根気強く運動を続ける人々。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(72)
日本軍による戦争の赤裸々な描写


 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。今号で紹介する南風原町の宮城さんは、20歳で徴兵されて満州に派兵されたのち、近衛兵として皇居で勤務していて敗戦を迎えた様子を証言している。引用は原文通り、省略は……で示した。

南風原町史第9巻戦争編本編『戦世の南風原~語るのこすつなぐ』(2013年)

宮城善徳「近衛兵の体験」

 ……満20歳で徴兵され、昭和16年、宮崎県都城23連隊に入隊することになりました。都城では、主に戦地要員の教育、対空監視の訓練などが行われ、写真でグラマンやB29などの米軍の飛行機の型を覚えさせられましたが、間違えるとビンタを張られたものでしたよ。3か月間程、ここで上官から教育を受ける「教育期間」なるものがあったのですが、戦争が激しくなると、10日位の基礎訓練を受けた後、すぐ戦地に送られるものもいたように思います。……
 昭和18年に、満州のチチハル方面司令部にある満州国ハイラル283部隊に配属されました。普通は連隊の名前で呼ぶのですが、スパイ防止のため「~部隊」と呼んでいたのです。満州では毎日、ソ連との国境で交戦できるように戦闘訓練が行われていました。満州の気候は、夏は暑く、冬は零下40℃まで下がるので、生活するのは大変でした。冬場の寒さを防ぐため、家の中にはペーチカと呼ばれる暖房があり、窓は二重ガラスになっていました。しかし、それでも寒さを防ぐことができないので、中からガムテープを窓の隙間に貼りました。寒い時期の警備は大変でした。……脱走する兵隊もおりましたが、すぐ捕まり、みじめなものでしたよ。……
 昭和19年のはじめ、東京近衛兵第7連隊に配属されることになった私は、満州から満鉄(南満州鉄道)を利用して釜山に着き、釜山と下関をつなぐ関釜連絡船に乗って、日本に帰りました。下関から東京まで直行の軍用列車に乗って行きました。
 東京では近衛兵として皇居の警備にあたりました。私は朝香宮邸を担当し、宮様方の警備をしていました。1勤務48時間で、何人かの者で交替しながら警備をするんです。近衛兵は、皇居周辺から皇居内の部屋の配置など全て覚えておかなければなりませんでした。……
 近衛兵の兵舎はりっぱなものであったし、食事は宮内庁で賄われていたので、1日3食キチンと食べることができたうえ、民間よりもごちそうだったと思います。
 御殿が空襲で焼けたので、天皇御一家がお入りになる「御文庫」という壕をつくりました。大変大がかりなもので、コンクリートの壕の上から土を被せ、木や草を植えて山のように見せた立派なものでした。……
 8月6日、広島に、9日には長崎に原爆が落とされたという情報は近衛兵内で流れていました。8月13日に御前会議が行われたので、15日に近衛兵達は終戦を告げるテープ(玉音放送)を宮内庁の連中から奪おうとポケットの中身まで調べて、放送を阻止しようとしたのですが、テープはすでに運ばれていました。
 玉音放送は流されたのですが、近衛師団としては「我々は宮城(きゅうじょう)の番犬ではないので、最後まで戦う」といったやぶれかぶれな調子で、みんな拳銃を離しませんでした。……数日たって、米軍から武装解除の命令が出され、進駐軍が近衛兵の兵舎に入るというので、兵舎から追い出された恰好になってしまいました。解散命令がしばらくしてから出され、「自由に」行動してよいということになったので、私と友人は米などをリヤカーに積んで、皇居前で皆に配ったりしました。

2022.8.3 本部塩川港。土砂運搬船にベルトコンベアーで土砂を積載

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