アルゼンチン フェミニズムと民衆の急進化の結合

幅広い連帯で中絶合法化実現
中絶の権利が民主主義と人権の連合の支柱に
カミラ・ヴァレ/マーベル・ベルッチ

 米国で6月、妊娠中絶の憲法上の権利が覆され、戦闘的な右翼の反中絶運動にとっての勝利の数十年を印した。この裁判所の公式決定以前ですら、この国の多くでは中絶を利用する方法の不足が現実だった。この10年だけでも、2022年のそうした法の37本を含めて、手続きに関してほぼ600の制限が州レベルで有効にされた。中絶を利用する人々は逮捕され、妊娠を中断することを犯罪とする法の下に起訴されてきた。そしてもっと多くがこれからの年月確実に、そうした処罰に直面するだろう。
 草の根グループの努力――中絶に資金を回すために募金し、中絶のために起訴された人たちを防衛し、クリニックを右翼の襲撃から守る――はあるとしても、プランド・ペアレントフッドやNARAL・プロチョイス・アメリカのようなリベラルな大黒柱に率いられた大衆的フェミニスト運動は後退の中にある。

アルゼンチンの勝利をふり返る


 しかし世界の他のところでは、特にラテンアメリカでは傾向線は別の方向を指し示している。妊娠中絶は2020年末にアルゼンチンで合法化された。そしてメキシコとコロンビアでは、各々2021年と2022年に犯罪から外された。これらの勝利を達成した諸運動は、米国のそれらの相方とは非常に異なっているように見える。
 ひとつのこととして、それらは巨大であり、各々の地域を貫いて街頭に数百万人を決起させている。もうひとつのこととして、それらはその要求、分析、さらに連合相手の選択においてあからさまに急進的だ。たとえばアルゼンチンでは活動家たちが、中絶が単に合法であることだけではなく、公的な公衆衛生ケアシステムを通じて普遍的に利用できることをも求めてきた。そして、性と生殖の自律性という課題を、包括的な性教育を求め、ジェンダーを基礎とする暴力に反対するキャンペーンに結びつけてきた。
 マーベル・ベルッチは、1980年代から2000年代はじめまで――この国の中絶法令に関する先頃の解放のお膳立てをした闘いの時代――、アルゼンチンの中絶運動にがっちりと関わっていた。1950年にブエノスアイレスで生まれたベルッチは、彼女の活動家としての生き方を1970年代に始めた。そしてこの国の聖職者―軍事独裁に反対する人権諸組織と共に活動し、仲間のフェミニストと共に組織化に携わった。
 ベルッチは1990年代半ば、進展中のクイアフェミニスト運動と、またトランスの闘いと連携するようになった。彼女たちは1997年、ブエノスアイレス大学で、ラテンアメリカで初めてのクイア研究部署創立を助けた。彼女たちはさらに、アルゼンチン政府とIMFのような米国が主導する金融諸機関の両者が押しつけた緊縮諸方策に反対する決起や工場占拠や労働運動の中でも活動してきた。ベルッチはその間ずっと、内部から諸々の闘争を記録にとどめることに専念し、運動の歴史を書き上げ、アルゼンチンの出版物であるトド・エス・ヒストリア、つまり「すべては歴史」のコラムニストとして活動した。
 筆者は4年前、ベルッチの2014年の著作、『不服従の歴史:妊娠中絶とフェミニズム』を受け取った。筆者は、米国内にいるアルゼンチン人の性と生殖の正義オルガナイザーとして、アルゼンチンの中絶運動に関する彼女たちの評価を、闘争内部のあり方のすばらしい成果――特に、しばしばやっかいな方便、分裂、改善、そしてひとつの運動の建設へと進む統一の契機、に対するその関心の点で非凡な――だと気づいた。それを読むことが、自立したフェミニストの歴史編纂がもつ価値と潜在的可能性を前面に引き出した。つまり、長い政治的な系列の連続として意識的に位置づけられた、われわれによって、われわれのために語られる歴史、のもつ可能性だ。
 筆者は、アルゼンチンの中絶運動の衝突をつくり出す戦術、幅広い連合建設へのその道筋、さらに米国における中絶の権利の幅広い巻き戻しから受け取るアルゼンチンのフェミニストにとっての教訓について、ベルッチと以下のような話を交わした。

中絶運動前面化への意識的挑戦

――フェミニストの意識、あるいは組織化のどのような形態が、あなたもその一部であった中絶運動を生み出したのですか? またあなたは、何に反抗していたのですか?

 1980年代と1990年代にアルゼンチンでは、中絶に関する討論は、レズビアンや性労働と並んで、しばしば黙らされた。これは、主流のフェミニスト運動と、フェミニストの中絶活動家およびレズビアン活動家の両者の間にひとつの緊張をつくり出した。私は、異なったシスフェミニストとの間に緊張を抱え始めた。つまり私は、私の仲間が大部分がむしろリベラルであった中で、伝統的左翼出身のクイア活動家だったのだ。独裁の間亡命していた戦闘的なトロツキストでフェミニスト活動家だったドラ・コレデスキーが、私にとっての偉大な助言者であり、教師だった。
 彼女がブエノスアイレスに戻ったとき、彼女は中絶がフェミニスト運動の要求になっていないと実感し、1980年代遅くに、「中絶の権利を求める委員会」を設立すると決断した。そしてそれが、後に「合法的で安全で無料の妊娠中絶の権利を求める全国キャンペーン」になるものへの種となった。彼女が標題に「中絶」の権利を置いたのだ。

――米国内で組織化に携わる何人かと同じく、私にとってもっとも注目に値することのひとつは、アルゼンチンの民主的な民衆的文化だ。そこには、諸々の総会の歴史、国民的な出会い、組織的な戦線、論争のための集団的な場がある。これは、独裁に対する抵抗の政治的な遺産というだけではなく、グローバリゼーションと対外債務に反対する抵抗の、特にアルゼンチン経済の危機が点火した2001年の反乱の遺産でもある。これらの決起が、2005年に正式に設立され、2020年に立法府でのその勝利を達成した「合法的で安全で無料の妊娠中絶の権利を求める全国キャンペーン」の浮揚を形作った。このより幅広い反乱はフェミニスト運動にどのように影響を及ぼしたのですか? またフェミニスト運動は他の爆発的な闘争をどのように形作ったのですか?

 1990年代遅く、「中絶の権利を求める委員会」とフレンテ・デ・ラ・デモクラシア・アバンザダ〔学生諸組織、人権諸組織、中絶運動、クイア運動、教員、専門職、その他で構成されたひとつの左翼連合〕が、独裁期に行方不明になった人々の子どもたちの組織であるHIJOSとより結びつくようになった。そして後者は傾向として、人権をめぐる全構図の中でもっとも急進的だった。かれらは、独裁の抑圧者に対しエスクラチェス〔通常は抑圧者の家の周りに集まり非難を唱和することによって、目立った人物におおっぴらに恥をかかせることを伴う直接行動のタイプ、に対するアルゼンチンの用語〕を行い始めた。
 私はブエノスアイレス・エスクラチェス委員会にいた。行動は信じがたいものだった。われわれは抑圧者が暮らすところを突き止め、その住宅街に向かい、そこで気づきを起こさせて丸々1ヵ月過ごすだろう。われわれは、その住宅街のすべてのドアをノックし、人々に、独裁の残忍行為に責任がある者がそこに暮らしていると告げるだろう。そのコミュニティのあらゆるところにチラシ、パンフレット、情報資材があった。そうして全員が知ることになる。
 関係を築き公衆に情報を与えるこの時期の後、われわれはエスクラチェスを広報し、そしてコミュニティ全体が出てくるだろう。われわれはバイクや車で進むだろう。それは、人権諸組織の中ではまれな戦闘性の契機だった。当時のほとんどのことは国家に向けて話すことだった。しかしこれは、責任ある者たちの戸口にまっすぐ向かった街頭行動だった。

――それはある種の祝祭のように聞こえる! 革命は抑圧された者たちの祭りだ、と語ったのはレーニンだったのではないだろうか!

 確かにそれはそうだった! われわれはまさに大いに楽しんだ。われわれは着飾って向かうだろう。それは左翼やフェミニズムの観念ではなく、まさに祝祭のような人民のエネルギーだった。

急進的運動通じ中心的な要求に


――私は、ここ米国で民衆は近年、よりおとなしくもっとはるかに自然発生的な行動の型を行おうとしてきたがゆえに、エスクラチェスについて多くのことを考え続けてきた。最高裁のメモがリークされた後、人々は「ロー対ウェード」判決を覆すことに署名した裁判官たちの家の周囲に集まり、そこでかれらは街頭にチョークで印を付け、抗議の唱和を行った。議員たちは、抗議のこうしたタイプの犯罪化と抗議参加者の起訴を迫った。アルゼンチンの中絶運動の成長に対し、HIJOSによるエスクラチェスがどのようにしてそれほど重要だったのかを、少し話せますか?

 エスクラチェスは集団的抗議の一形態として、ある種想像力をかき立てる憤激以上のものを表現した。その様式は、直接行動からなる一種の「演劇」上演であり、その中に文化的な伝統の多様性が凝縮した。当初そこにはただひとつの目的しかなかった。つまり、独裁期の人権侵犯を理由に起訴されることがなかった者たちに対する社会的糾弾だ。
 しかし短時間の内にエスクラチェスの行動はその境界を広げ、独裁の代表者たちに対する政治的拒絶の古典的な表現であるものから、公然の非難と可視性の一手法として他のグループによって使われるものへと進んだ。フェミニストの諸グループは、あらゆることに向けて、特におおっぴらに中絶を討論するために、エスクラチェスを立ち上げ組織した。
 1990年代の終わりまでに、諸連合のおかげで、また中絶運動もその一部だった政治的発展の集団的な経験のおかげで、中絶はいわば異なった姿を発展させた。フェミニズムと女性たちが主役的になった。中絶に対する支持はもっと公然となり広がった。

――その運動は、そこで高まり続ける民衆的支持をどこに向けたのですか?

 それは、2001年12月19、20日の巨大な民衆的反乱の中で最後までやり切った。そしてその反乱はアルゼンチン社会の中で闘いの新たな段階――民主主義を求め、伝統的諸政党、全体としての政治家、緊縮、そして対外債務と対決する――を促進した。われわれは、都市の中心で、ブエノスアイレス、ラプラタ、コルドバ、メンドーサ、ネウケンで、あらゆる行動のタイプを組織し始めた。
 反乱の政治的性格はピケテロス〔失業者運動〕、学生運動、労働運動から現れた。われわれはまた、政治的組織化の空間であると共に相互援助のネットワークでもあった居住地総会も築き上げた。われわれは、中絶が焦点であった中絶総会をつくり出した。
 しかし、その絡み合いの中で中絶に関して起きたことは、その問題が格納庫から、脇の走路から、他の総会や諸運動へと抜け出すことができた、ということだった。中絶運動は、各々の中に自らを確立しつつ、あらゆる総会の中で自身を活性化し始めた。その時までにこの運動は現実に、中絶問題を掲げるひとつの特別な集団化や総会を確保する必要はもはやなかった。中絶は、あらゆる戦線と連合のひとつの支柱になったのだ。それは、それをあらゆる他の課題の中心にしたキャンペーンそれ自身のおかげで、全面的に統合されるようになった。

合法化後も次の新しい闘い必要


――私の考えでは、これは本当に重要な洞察だ。つまり、他の急進的な運動から隔絶されるような中絶運動に対する拒絶が、へりにある何かであることから、幅広い親民主主義と人権の連合の支柱であるものへと、それが発展することを助けたのだ。他の教訓、この点の別の側は、中絶のような周辺化された課題を、より幅広く社会の中と特に左翼内部の双方で前面にもってくることを、集団的経験がどれだけ助けることができるか、ということだ。

 それは絶対的だ。諸々の総会は非常に異質的だ。そして、それらの年月に出現した中絶を求める公式的全国キャンペーンは、ある種の国民的で階級横断的な性格を帯びた。諸々の総会もまた、出発点として中絶は掲げられることが必要な1要求とした。間違いなくそれは、それらが抑圧、差別、また対外債務を終わりにすることを要求したこととまさに同じだ。その点で、あらゆることがあらゆることと、つまり、エコロジー、フェミニズム、クイアとトランスの運動、抵抗のすべての形態、と混ぜ合わされた。

――アルゼンチンでは中絶が合法化の新しい局面に入ろうとしている中で、米国では逆が真実だ。これらの軌跡の間にある平行するものと違いに関する結論的な考えはどういうものですか?

 グローバルノースの諸国、特に米国の経験は、合法化が闘いの新しい局面を開いている、とわれわれに示すことになった。それは、反中絶グループがこれからの年月に発展させる諸戦略と対決する闘い、を必要とすることになる局面だ。米国でわれわれは今、中絶の権利に対する何十年もにわたる攻撃の、物質的かつイデオロギー的な諸々の作用を見ている。
 そこには、アルゼンチンでわれわれが考えをめぐらせなければならない教訓がある。合法化は、不平等や抑圧をなくした、という意味では全くない、ということだ。中絶を利用できない、あるいはそれを利用しないと選択することを理由に親になるという望まない選択をしている貧しい個人は、私に大きな政治的懸念を覚えさせる。
 不服従の姿勢として中絶を求める闘いの歴史を物語る中での私の希望は、われわれには抑圧と全体としての全体主義的秩序を破壊し始める力がある、ということだ。(『ジューイシュ・カレンツ』より。スペイン語からの翻訳はカミラ・ヴァレによる)

▼カミラ・ヴァレは、編集者、翻訳家、記者で、「中絶の権利を求めるニューヨーク市」のメンバー。
▼マーベル・ベルッチは、長い経歴を持つアルゼンチンのフェミニスト/クイア活動家。(「インターナショナルビューポイント」2022年11月3日)    

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