ロシア10月革命90周年にあたって(上)

スターリニズムの克服のために
どのような歴史的検証が必要か

「世界をゆるがした」革命

 一九一七年十一月七日(旧露暦十月二十五日)のロシア革命記念日から九十年を迎える。資本主義が帝国主義段階に突入したことを背景に、欧州を主戦場に「総力戦」として展開された世界戦争としての第一次世界大戦のさなかに勃発したロシア十月革命は、「戦争と革命の世紀」とも言われた二十世紀最大の出来事の一つだった。
 帝国主義の最も「弱い環」で起こったロシア十月革命は、ジョン・リードの精彩に満ちたルポの題名のように「世界をゆるがした」のであり、その波紋は帝国主義国だけではなく帝国主義列強の植民地とされた地域にも及んだ。東アジア地域をとっても、日本の苛酷な植民地支配下にあった朝鮮の「三・一決起」、そして日本をふくむ帝国主義諸国によって「半植民地」状況にあった中国の「五・四運動」はロシア革命の直接的・間接的影響を受けた民族解放運動だった。
 ロシア十月革命は、レーニン、トロツキーなどのボリシェビキの指導者たちにおいては、帝国主義戦争に協力したドイツ社会民主党などを中心とした第二インターナショナルに代わる、新しい世界革命の戦闘司令部を創出していく闘いとしても意識されていた。一九一九年には、共産主義インターナショナル(コミンテルン、第三インターナショナル)が結成された。
 ロシア革命は労働者・兵士ソビエト、そして地方における農民反乱を基礎にした真に大衆的な社会革命であった。レーニンとならぶロシア革命の傑出した指導者だったトロツキーは有名な『ロシア革命史』序文で書いている。「革命の最も疑いない特徴は、大衆が歴史上の事件に直接関与することである。……革命の歴史は、われわれにとってはなによりもまず、大衆が自分自身の運命を左右する領域に力ずくで介入する歴史である」。
 もちろん十月革命の勝利は、ボルシェビキ党の意識的な指導と計画なしにはありえなかった。トロツキーはそのことを認めた上で次のように述べている。
 「政党や指導者の役割は大衆自身の中の政治過程の研究をもとにしてはじめて理解できる。われわれは少しも政党や指導者を無視しようとするものではない。かれらは過程の独自の要素ではないにしても、きわめて重要な要素である。指導組織なしには、大衆のエネルギーはピストンつきのシリンダーに注入されなかった蒸気のように発散してしまうであろう。しかし動力をつくりだすのはやはりシリンダーでもピストンでもなく、蒸気である」(岩波文庫版『ロシア革命史1』藤井一行訳)。

総括ぬきの結果解釈の誤り

 今日、ロシア革命、とりわけ十月蜂起に関して、それが大衆的革命ではなく「ボリシェヴィキによるクーデター」であり、「短期間のうちにロシアに理想社会を実現しようとしたユートピア的暴動」であり、「血に飢えた権力亡者の全体主義的独裁」でしかなかったと全否定する主張が横行している。ロシア革命に対する「反革命」としてのスターリンの官僚独裁体制の血も凍るほどの罪業の数々や、一九九一年のソ連邦崩壊の現実から逆規定したそのような主張は、スターリニスト体制の犯罪の歴史的検証としては大いに意味があったとしても、ロシア革命の現実の力学に関して歴史的検証に耐えうるものではない(この点に関しては、たとえばE・マンデル『一九一七年一〇月――クーデターか社会革命か』柘植書房新社刊を参照)。
 現在でもその種の主張には事欠かないようだ。たとえばフランソワ・フュレの『幻想の過去――20世紀の全体主義』(バジリコ刊)への書評において、山下範久(立命館大准教授)はフュレの主張を「自由主義に対する敵意、議会制民主主義に対する侮蔑といった点でコミュニズムは、むしろ最初からファシズムと同じ苗床から出てきたものなのだ」と肯定的に評している(朝日新聞、10月28日)。
 ちなみに現代フランスの代表的なマルクス主義哲学者であり、第四インターナショナル・フランス支部の指導的人格の一人でもあるダニエル・ベンサイドは、「悔い改めたスターリニスト」であるフュレの主張について「ロシア革命は、資本主義を乗り越える『客観的諸条件』がまだ存在しなかったにもかかわらず、歴史の『早産』によって十月の蜂起が起こったために悲惨な事態が運命づけられていた。ボリシェヴィキ指導者たちは、目的を自制するという賢明さを発揮する代わりに、この致命的誤りの悪しき権化と化した」とする「歴史の意味や進歩の概念や単線的時間についての決定論的論理に属する」古臭い主張の繰り返しとして批判している(「二〇世紀における革命の運命」、『トロツキー研究』50号)。すなわち以前のメンシェヴィキや、ロシア革命の衝撃に戦慄したカウツキーの「ブルジョワ民主主義的課題に止まるべきだった」とする古い主張の焼き直しである。
 「ファシズムと共産主義の共通性」という伝統的反共主義の主張は、ソ連崩壊以後の十六年間、「歴史の終焉」論やグローバルな新自由主義の謳歌として復活し、世界のイデオロギー状況を支配した。
 一九七七年生まれという若手の研究者である白井聡は『未完のレーニン』(講談社選書メチエ 07年5月刊)の「あとがき」で次のように述べている。
 「……かつて一部の人びとから無批判的に讃えられた『共産主義』の仮面を剥がし、そこで実際に何が起こっていたかを明らかにする作業は、それ自体非常に重要なことである。だがその一方で、この種の作業を経ることによって何を歴史の教訓として現在に対峙し、より良い(あるいはマシな)世界をつくり出すための導きとするのか、ということはまた別の問題である。社会主義を標榜するほとんどの国家は消滅ないし実質的に崩壊したという紛れもない状況のなかで、マルクス主義や社会主義革命は思想的にも実践的にも誤ったものであると宣言し、それをナチズムにも劣らない世界で最も憎むべきものであると断じたうえで、新自由主義化した資本主義や多くの国々でおよそ健全に機能しているようには見えない議会制民主主義を全面肯定することが正義であると結論すれば……歴史の教訓は正しく学ばれたことになるのだろうか? 私はそうは思わない」。
 私は、白井のこの著書については「何をなすべきか?」と「国家と革命」に焦点を絞ったレーニンへの過剰な思い入れが感じられ、必ずしも共感しなかったが、ロシア革命を総括するにあたっての、この問題意識については基本的に同意する。いま求められていることは、「スターリニズムの全体主義的独裁=収容所国家」を生み出した、この革命の結果解釈的な切り捨て「総括」ではない。それは「歴史の教訓」を学ぶことにはならない。
 問われていることはスターリニズム支配体制へと帰結したロシア革命史の過程的総括を通じて、この歴史的な「負の教訓」を今日的にどのように継承していくかであり、どのような「革命」であってはならないかという問題意識を深化することだろう。言うまでもなく、もはや人類と地球の生存そのものを破壊せずにはやまないことが明白になっているグローバル資本主義の支配に対する抵抗と反撃の闘いの中から「二十一世紀の社会主義革命運動」を再生するためである。

「過程の弁証法」とは

 私は、この間「ソ連邦の崩壊=社会主義の崩壊」を「歴史的必然」とする主張への批判を繰り返し試みてきた。それは「社会主義は歴史の必然」とする俗流マルクス主義のかつての主張を裏返しにした、非歴史的思考そのものではないか、と。私はそうした思考の方法をスターリンの全体主義的統制社会をレーニンのビジョンと直結させる「スターリニズム擁護論」に他ならないと主張してきた。
 私は、ロシア革命が当のボリシェヴィキ党指導者によって「あらかじめ保障された予定調和的な『約束の地』への歩み」として意識されていたわけではないことを強調した(「かけはし」97年11月3日号「ロシア革命80周年 ロシア革命の『勝利』と『敗北』から何を学び、何を受け継ぐのか」)。むしろロシア革命の指導者たちは「社会主義への過渡期の建設」問題について、何の理論的準備もできておらず、したがってきわめて経験主義的な試行錯誤という状態を余儀なくされたのである。それはきわめて犠牲の多い試行錯誤だった。その観点から「レーニン、トロツキーやボルシェビキ党によるロシア革命の指導と労働者国家建設の過程を神話化するのではなく、一つ一つの転換点(憲法制定会議の解散、内戦と戦時共産主義、労働組合論争、一九二一年の分派禁止措置とクロンシュタット反乱)に即して、今日の時点に立って批判的に再評価する必要」についても私は指摘した(同論文)。
 そして、いま改めて確認すべきことはトロツキーが「スターリニズムとボリシェヴィズム」(『トロツキー研究』50号に西島栄によるロシア語原文からの新訳が掲載されている)において性格づけた「ボリシェヴィキの独裁の樹立から始まった十月革命は、官僚独裁に行き着かざるをえなかった。スターリニズムはレーニン主義の継続であり、それと同時にその破産である」とする非弁証法的な単線的・機械的歴史観を批判したのと同様の方法で、幾度も繰り返される「歴史的必然論・運命論」を批判することである。そしてそこにおいて必要なことは、スターリニズムの成立・確立・危機を「内的矛盾の自己展開」としての歴史観ではなく、内外の諸条件の中で複合的・多面的に把握しようとする方法論であり、歴史を「開かれた可能性」として理解し、さまざまな路線上の論争や異なった政策決定の可能性の中で「過程的」につかみとっていくことなのである。
 それは決して「護教主義」的正当化ではない。また文献資料への埋没の勧めでもない。中野徹三は「トロツキーの哲学」(『トロツキー研究』6号、8号)の中で、トロツキーの哲学方法を「過程の弁証法」と特徴づけた。われわれが「ロシア革命」の勝利と敗北、その「負の遺産」の自覚に根ざして七十四年間のソ連史を徹底的に総括し、将来に生かしていくためには、この「歴史の開かれた可能性」という認識に基づき、さまざまな論争の過程と結果を具体的に検証し、現在に継承していくことが必要なのである。そうした作業の蓄積と血肉化なくしてはスターリニズムの総括は不可能になるし、「繰り返されるスターリニズム」の危険性を封殺することはできない。
 「スターリニズム批判」を立脚点としていた日本の新左翼の中で内ゲバ主義に体現される「最悪のスターリニズム」が生み出されてきたことは、その端的な証である。

新しい時代と社会主義再生

 もちろん私は、このスターリニズム官僚独裁体制へと結果したロシア十月革命後の社会主義への「過渡期建設」のジグザグと失敗の過程的検証を、もう一度「ロシア革命をやり直す」ために必要だ、と言いたいのではない。
 あくまでもロシア十月革命は、第一次世界大戦という帝国主義の当時の段階における矛盾の爆発と、プロレタリア階級闘争の当時の主体的諸条件における歴史的産物であり、新自由主義的グローバル化という資本主義の今日的段階やそこでの諸矛盾の構造、そして階級闘争のあり方は今日では全く異なったものになっている。われわれは「ロシア革命を出発点とした国際的な階級闘争のサイクルが完全に終焉した」ことを強調してきた。その強調はむしろ遅すぎたのであり、一九八〇年代以後の新自由主義的グローバリゼーションの拡大に速やかに対応するものとはならなかった。
 第四インターナショナルが「現に展開されているのは資本主義的蓄積様式の歴史的転換であり、その全面的な戦略的結果はいまだ明白になっていない」「ここで強調したいことは、われわれが投げ込まれているのは通常の上昇と下降の局面的後退ではないということである。一つの枠組みが終焉し、資本の再編成と結びついている変化が新しい諸問題を提起している。グローバリゼーションというテーマがイデオロギー的に利用されているとしても……グローバリゼーションはやはり一つの現実である。それは社会的転換、政治的亀裂、そして国家の不安定化の力学を決定している」(『社会主義へ、いま』第四インターナショナル第14回世界大会報告集、新時代社刊)と規定したのは一九九五年になってからであった。
 われわれがこの「ロシア革命」の過程的検証作業を必要とするのは、何よりもまずその「負の遺産」としてある「スターリニズム」的な現れの一切と決別する以外に、「二十一世紀の社会主義」の再生はありえないと確信するからである。私は一九九七年の前掲「ロシア革命八〇年」論文において、スターリニズム的「社会主義」の否定的現実を以下のように列挙した。
『国有化』を土台にした中央集権的指令経済の非効率。『消費者主権』の不在
重工業を中心にした生産の『外延的』拡張に見られる『生産力主義』――エコロジーへの無配慮
国家の中央集権的強化と一党独裁――全般的に浸透した秘密警察と、政治的民主主義や自治の不在
あらゆるレベルでの大衆の決定権からの排除と、大衆のアトム化、『無関心』
党による価値観の独占、異論の排除、人権抑圧
支配民族(ロシア人)の優位と女性・マイノリティーの差別・抑圧、平等の軽視
軍拡競争と国際的覇権主義
 私は「このリストはさらにいくらでも拡張することができるだろう」と付け加えたが、実際に、この繰り返すことが許されない「負のリスト」は、その後の証言や資料によって大幅に増やさなければならない。
 そして中国における「資本主義」の爆発的拡大による貧富の格差の増大や爆発的な環境危機、北朝鮮の金正日軍事独裁体制下の民衆への言語に絶する圧政や絶対的貧窮と飢餓、ありとあらゆる国家的犯罪行為の数々を突きつけられるにつけ、われわれはこの「負の遺産」の歴史的重圧がなみなみならぬことをあらためて思い知らされている。とりわけ革命的マルクス主義者は、この実態に目をそむけることは許されない。
 さらにエリツィン、プーチンの「復古資本主義ロシア」においては、原油価格の暴騰を原資とした資本主義経済の「高景気」にもかかわらず、一方ではツァーリとスターニリズムの歴史的伝統としての「秘密警察支配」とポリトスコフスカヤの暗殺に体現される異論派の抹殺、チェチェンに対する軍事侵略とポグロム的虐殺など少数民族への弾圧が猛威をふるい、他方では「社会主義」を建前としたスターリニズム体制の下ではまがりなりにも保障されていた低価格の公共サービス、年金保障、雇用・医療・教育などの権利は、無残に破壊されてしまった。「スターリニズムの遺産」と新自由主義的なむきだしの資本主義による搾取・収奪が複合した現実に、ロシアの労働者・市民は直面している。
 トロツキーは「万一、何らかの不利な条件あるいは特別に不利な条件のために……広大なソヴィエト領土にロシア資本主義が復活したとしても、復活と同時に資本主義の歴史的な欠陥が再現することは必至であろう」(「ロシア革命の擁護」一九三二年十一月、『トロツキー研究』5号)と予言した。彼はそれに付け加えて「そして、復活した資本主義そのものが、やがてはふたたび、一九一七年に爆発をもたらしたと同じ矛盾によりくつがえされるであろう」と述べた。
 しかし言うまでもなくそこにあるのは「同じ矛盾」ではない。グローバル資本主義の構造的な矛盾の性格は一九三〇年代とは大きく異なっており、何よりもロシア革命の勝利をもたらしたロシア労働者階級の主体は、もはや存在しない。
 われわれは全く新しい条件の下で、オルタナティブとしての社会主義を再生しなければならないのである。      (つづく)
(平井純一)

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