時代認識について
かけはし98.10.4号より
日本革命的共産主義者同盟(JRCL)第18回全国大会・全国討論文書
世界社会主義革命運動の新たなサイクルを開始するために
以下の文書は、JRCL第18回大会で全国的な組織討論に付すことを確認したものである。
社会主義革命運動の再出発が求められている
a ソ連・東欧の崩壊の歴史的意味
89年の東欧革命、そして91年のソ連邦崩壊は、1917年ロシア革命が切り開いた「社会主義革命の時代」の時代的可能性が、最終的に終焉したことの表現だった。ポーランドスターリニスト官僚支配体制を打倒した主体的力は、独立自主労組「連帯」の闘いであった。ソ連官僚支配体制にとどめをさしたのは、リトアニアの独立運動に対する軍事介入に抗議して全国に広がった「ゴルバチョフ打倒」をかかげた労働者のゼネストであった。闘いが最も広がったところでは、労働者のストライキ委員会が生活物資の配布を含む事実上の「権力」として機能し始めていた。
このように、職場を基礎に団結した労働者の闘いが軸になって官僚支配体制は打倒された。しかしその後に生じたのは、労働者国家の民主的再生ではなく、労働者国家そのものの崩壊だった。ゴルバチョフらが保守派官僚を抑え込むために開始した「歴史の再評価」の枠組みを超えて、「トロツキー再評価」の動きも急速に進んでいたし、社会主義的民主主義の再生を主張するモスクワ人民戦線などの動きも全国に拡大した。スターリニズムから独立した革命的左翼を名乗る小グループも、雨後の筍のように次々に各地に形成された。しかし、このような動きは、労働者大衆によってまたたく間に圧倒的に右側から乗り越えられた。労働者民主主義にもとづいて社会主義をめざそうとする闘いは、ソ連・東欧の労働者の中にその基盤を見いだすことができなかったのである。
自らの希望を「社会主義的未来」に託そうとする意識は、スターリニスト官僚専制の70年間の中で、ほぼ完全に失われていた。その論理は、帝国主義国内部でも第三世界でも強弱の違いはあれ貫かれていた。そしてそれは、資本の支配を正当化する意識、資本主義の拡大再生産の持続に自らの未来を託そうとする意識の全般化とパラレルであった。だからこそ、80年代から90年代にかけて労働運動の大後退が生じたし、その中で第四インターナショナルをもふくむ革命的左翼勢力の組織力の大幅な後退が生じた。ニカラグア・サンディニスタの敗北・分裂・社民化も、そうした時代状況と大衆的意識の現状を表現するものであった。そしてソ連邦の崩壊は、その最終的結論であった。
b 世界的な「階級の敗北」
われわれは、80年代初め以降、このような状況の進行を「階級の敗北」として経験的にとらえ始めていた。第四インターナショナルの第12回世界大会(1985年)は、もはや「人類の危機は革命的指導部の危機に還元される」という「過渡的綱領」の原則が直接的有効性を持ち得ておらず、労働者階級の根本的再組織化こそが求められていることを提起していた。
95年に開催された第14回世界大会は、このような労働者階級の運動そのものの危機が、以下の3つの政治的サイクルの終焉によってもたらされていることを明確にした。
「①1968年に始まった政治的サイクル―その終焉は革命的左翼にとって直接の打撃になっている。
②1917年に始まった政治的サイクル―その終焉はスターリニズムの世界モデルをたしかに解体したが、同時に資本主義に取って代わる社会の『現実的可能性』について全般的疑惑を作り出した。
③19世紀末の四半世紀に始まった政治的サイクル―この時期に広大な社会階級としてのプロレタリアートが形成され、このプロレタリアートが、社会民主主義、労働組合および『社会主義的対抗文化』の出発点になったが、これらすべてが衰退しつつある。
……こうして提起されている問題は、力を強めつつある活発な伝統的労働者運動を基礎にして旧(改良主義)指導部を別の(革命的・反資本主義的)指導部に取って代えることではなく、歴史的危機のもとにある労働者運動総体の転換を通じて新たな政治的再武装を実現することである」(『社会主義へ、いま』58~59頁)。
c 階級的闘争経験を蓄積するための闘い
われわれがこの間、「ロシア革命以来の世界社会主義革命運動の歴史的一サイクルの終焉」として表現してきたことの意味は、第四インターナショナルの共通認識としてこのように簡潔に定式化されている。21世紀を目前にして、われわれはこの「時代認識」をはっきり確認することが必要である。なぜなら、それはわれわれの当面する任務を導き出す前提であり、基礎であるからだ。われわれはこの間、「反資本主義左翼」の結集が当面、望めないという状況の中で、「総保守化に対抗」し、日米安保体制の強化や海外派兵、そして一連の新自由主義的経済政策に対決する闘いが、「『平和主義的リベラル民主主義』という土俵の上で現に始まらざるを得ない」(第16回全国大会決議)ということを確認し、そのもとで「平和・市民」の選挙闘争や各級自治体選挙、沖縄連帯闘争、新ガイドライン反対闘争などに取り組んできた。しかし全体として、反撃の気運を作り出すことに成功していないし、現在もなお後退戦が続いている。このような状況の中で、「社会主義のストレートな主張は通用しなくなった」というような自然発生的認識では決定的に不十分であり、むしろ危険である。それは「リベラル民主主義への溶解」という傾向を不断にもたらすからである。
労働者階級の社会的意識・政治的意識という点では、われわれは「第一インターナショナル以前的状況」に投げ出されている。言うまでもなくロシア革命は、第一インターナショナル、第二インターナショナルのもとで労働者が蓄積してきた、階級的に団結して資本と対決する闘いの経験の積み重ねの上に、そしてロシアにおける「総稽古」であった1905年を含む闘いの蓄積の上に、はじめて実現された。階級的に団結した闘いの上に社会主義を展望するという意識が、少なくとも大衆的前衛層の中に形成され、そのような大衆的前衛層が労働者の中で闘いの経験に裏打ちされた信頼を獲得していなければ、社会主義の説教は現実性を持ち得ないし、過渡的綱領を実践的スローガンとして提起する基盤もまた存在しない。すなわち、われわれに今日、まず第一にもとめられているのは、労働者が職場での団結あるいは職域を超えた階層的地域的団結を基礎にした政府・資本とのさまざまなレベルにおける闘いの経験を蓄積することを通して、新たに社会主義革命に向かうことのできる基盤を作りだそうとする長期にわたる闘いである。
同時にこのことは、われわれにスターリニズムのどのようなあらわれとも徹底して闘うことを要求している。東西を貫いて、労働者は官僚の言う「社会主義」が、物質的豊かさも社会的・政治的民主主義ももたらさないことを深く実感した。新しい「社会主義革命運動のサイクル」を開始するためには、社会主義者こそ「人権」や「民主主義」の最も断固とした擁護者であることを、実践をもって労働者に示さなければならない。それは、国内的な内ゲバ主義との闘いにとどまらない。たとえば中国官僚による政治的民主主義の圧殺や民族自決権に対する弾圧を許さず、新自由主義的諸政策の押しつけに反対し、官僚専制と闘う労働者人民を支援する闘いが決定的に重要なのはそのためである。
d ヨーロッパで始まった新たなサイクルへの大衆的経験の蓄積
ヨーロッパでも、80年代を通じて階級闘争は大きく後退した。レーガノミックス・サッチャリズムという形で表現された規制緩和と民営化を柱とする新自由主義の攻勢の前に、労働運動の後退は続いた。89~91年のソ連・東欧の崩壊の中で、後退はさらに進行した。しかし「68年5月世代」を柱とする革命的左翼勢力は、第四インターナショナル派をはじめとして大きな後退を強いられながらも、社会的政治勢力としての存在を失うところまで崩壊しはしなかった。反レイシズムなどの大規模な大衆動員も断続的に続いていたし、労働運動の抵抗もまた、このような政治勢力と結びつきながらねばり強く持続してきた。
その一方で、資本のグローバル化の急速な進行は旧来の国民国家と既成政治の現実的有効性を急速に失わせていった。レーガノミックスやサッチャリズムは、大量生産・大量消費による資本の拡大再生産システムであるフォーディズム的蓄積様式が決定的行き詰まりに陥り、利潤率を回復するためには賃下げと首切りを強行せざるを得なくなったことのあらわれだったが、リストラと規制緩和・民営化による利潤率の回復と株式市場の活性化は、資本主義の新たな回復をもたらしはしなかった。EU諸国平均で10%を超える失業率、「大競争時代に勝ちぬくため」ということで日を追って激化するリストラ攻撃、「企業にとって魅力的な投資環境の整備」と財政赤字削減を理由にした社会保障の切り下げにつぐ切り下げは、戦後高度成長下の「完全雇用」と「大衆消費社会」的成長、そして「福祉国家」としての充実を条件として労働者の中に形成されてきた資本の支配を正当化する意識を少しずつ掘り崩していった。
そのような状況下に置かれた労働者の意識と左派の闘いが結びついて、90年代後半から全ヨーロッパ規模で労働者の組織的反撃が始まった。その突破口を切り開いたのが、95年末のフランス公務員ゼネストであり、97年の反失業ヨーロッパ大行進であった。統一通貨ユーロの実現に行き着いたヨーロッパ経済統合の進行の中で、「多国籍企業の統一ヨーロッパ」に対決して「労働者の統一ヨーロッパ」を実感し得る形で対置するための闘いが、着実に進行しつつある。「大競争」を口実にスペインやポルトガルの水準に労働条件を切り下げようとする多国籍資本に対決して、フランスやドイツの水準への切り上げを求め、ヨーロッパ統一要求で抜本的改善を求めようとする闘いが、現実にその姿をあらわそうとしているのである。(詳細は「かけはし」99年1月18日号「ユーロの出発と新しい階級闘争の時代」参照)
このような闘いは、国家と資本から労働者の意識が独立することを促進する。いまヨーロッパでは広範な労働者が階級的に団結して、多国籍資本とその利害を体現する政府と対決し、自らの生活と権利を闘争を通じて守ろうとする大衆的経験を積み重ねつつある。それは、21世紀に向けて、社会主義革命運動の新しいサイクルを作り出すための闘いである。
このような闘いを推し進める上で、一国主義的組織と綱領の有効性は決定的に失われている。第四インターナショナルが「労働者の統一ヨーロッパ」をめざす闘いの中心を担っているのは偶然ではない。すでに国際スターリニズムの統合力は最終的に失われ、各国のスターリニスト諸勢力は政治的混乱を深めている。第四インターナショナルの非セクト主義的実践の積み重ねによって、旧スターリニスト諸勢力のバリアは打ち破られており、スターリニズムのもとにあった労働者ともインターナショナルが直接結びつく新たな可能性が広がっている。トロツキストが労働運動全体の指導権に挑戦しつつ、労働運動を階級的に再組織しようとする闘いが、たしかにいまなお「始まり」にすぎないとはいえ、確実に「始まって」いるということができる。
資本の支配を容認し屈服する現実的危険性との闘いを
a 労働運動の崩壊的状況と左派の市民主義化
日本では、16回大会で諸攻撃への抵抗が「平和主義的リベラル民主主義の土俵の上で開始する」と確認せざるを得なかった状況がますます進行している。労働者が職場を基礎に、あるいは職域を超えて階級的に団結して資本の支配と対決するような闘いは、全国闘争としては国労闘争団の闘いや98年の「労基法改悪NO!全国キャラバン」などのきわめて数少ない例を除けば、中小零細職場でのエピソード的闘いにとどまっている。このような状況が左派勢力全体の中で階級的闘いへの関心と確信を失わせ、「市民主義化」を促進する要因になっている。
「制度圏での闘い」の方がとりあえず有効に見える状況は現実である。しかし大衆運動の強力な力がなければ、とりわけ労働運動の強力な力に押し上げられなければ、「制度圏」における政策的対案とロビー活動は、結局のところ限りなく既成政治支配システムの補完物として取り込まれていく危険性を持っている。ここで決定的に問われているのは、「危険性」についての自覚であり、労働運動を軸とした大衆運動を構築しようとする努力と意識性を堅持することである。
b 労働運動を後退させた経済社会構造
80年代に労働運動が大きく後退した主体的要因のひとつは、「大衆消費社会」として自己を表現した資本主義の拡大再生産システムであるフォーディズム的蓄積様式のもとで、戦後高度経済成長期を通じて労働者階級の資本の支配への実質的包摂が深く進行していったことである。ソ連邦と労働者国家圏に対抗するという側面もあって充実がはかられていった福祉国家化と、戦後の高度成長下での右肩上がりの賃金上昇と「完全雇用」状況の持続は、一面では労働者の闘いが資本に強制したものであり、その意味で闘いの前進のあかしであった。しかしその闘いの前進そのものが、にもかかわらず現に労働者が生活する社会としての資本主義社会を正当化し、それによって資本のもとへの実質的包摂が進行するというパラドックスを作り出した。
全般的なサービス産業化の進行は、「労働者意識」の希薄化をもたらした。
自動化、コンピュータ化の進行と生産過程の複雑化・多様化に対応し、また直接的生産過程の縮少と反比例して、間接部門、管理・事務部門の複雑化・多様化とその肥大化が進行した。管理・事務部門の労働は、資本の意図を体現し価値増殖をスムースに展開することを職務とするものであり、同時に直接部門の労働者を資本の要求にスムースに従わせることを職務とする。
直接部門での省力化はまた、新製品や新たな生産方法の開発にたずさわる研究開発労働の肥大化と一体となって進行する。それもまた、資本の意図を体現し剰余価値生産を極大化することを目的にしたものである。省力化の進行で、直接部門の労働者の多くが営業労働に配転となる。言うまでもなく営業労働は、資本の意図を体現して「消費者」としての他の労働者の意識を「生産」することを目的にしたものである。さらに、多国籍企業化の進行にともなって、管理部門労働者は海外の労働者を低賃金で効率よく働かせることをも職務とするようになる。
こうして、研究開発・生産・管理・販売に至るまで、旧来の直接部門と間接部門がほとんど一体化し、労働過程を通じて労働者が資本の価値増殖の意図をよよりよく体現することを意識せざるを得なくなっていった。そしてそれは、強制力をもって組織されたQC・ZDサークル運動によって徹底化された。
このような生産過程の変化は、年功賃金、終身雇用、企業別組合を三本柱とするいわゆる「日本的経営」、企業年金や社宅などの企業社会的福祉構造とも連動しつつ、階級意識を急速に風化し、解体していった。組織された労働者の中心部分をなす基幹産業の本工労働者の意識はますます「サラリーマン」化し、資本と一体化していった。
ロボット化の最も進行した日本では、ひと握りの独立左派や共産党系の政治的抵抗運動を除いて、大民間で労働運動の事実上の消滅をもたらした。また、本工と下請け、臨時工の差別、女性差別、民族差別をはじめとする重層的差別構造が、階級意識の解体と資本の支配を受動的に受け入れる意識の形成を一層、うながした。
こうして、「地域」や「教育」や「環境」など、生産過程の外で、資本の直接的支配から相対的に切り離されたところで、はじめて労働者が「社会問題」や「抵抗」に目覚めるという状況が全般化した。
労働者階級の実質的包摂が進行するその過程を、さまざまな形で露呈していった国際スターリニズムの否定的現実に対する認識の広がりが促進した。「オルタナティブとしての社会主義」は急速に色あせていったのである。実質的包摂の進行の中で起きた二度の石油危機と世界同時不況、そしてその後の「減量経営」、リストラ合理化攻撃は、とりわけ基幹産業の労働者の意識を資本との対決へ向かわせるというより、逆に資本との運命共同体的方向に追い込んでいった。
このような過程の進行に対して、革命的左翼は有効に対応しえなかった。「大衆消費社会」としての戦後資本主義の歴史的行き詰まりのもうひとつの表現であるエコロジーの危機が、70年代、80年代を通じて広がり始め、徐々に意識され始めていた。持続しえない社会、未来を食いつぶしつつある社会としての「大量生産・大量浪費」社会を、生産と消費のあり方を含めて根本的に見直すべきであるとするエコロジー運動は、「企業社会」にとり込まれた労働者の意識を資本から独立させる上できわめて重大な意味を持っていた。資本の支配の正当性を根本的に問うことになるからである。旧来の戦線での後退戦を闘っていた革命的左翼は、この問題に主体的に取り組むことができなかった。
ヨーロッパでは、この運動を通じて緑の党が政治勢力化した。「企業社会」を通じて資本による労働者の実質的包摂が最も深く進行した日本では、労働運動の後退と崩壊が最も深く進行しただけでなく、緑グループも政治勢力化することができず、88年の伊方原発出力調整実験反対闘争と89年の「原発いらない人々」による脱原発選挙を頂点として後退局面にある。
c 緑の党への幻想と真に問われる課題
第二次大戦後に形成された資本主義の世界システムが根本的に行き詰まり、支配の正当性を自ら掘り崩す新自由主義政策をますます強めざるを得なくなっている状況の中で、ヨーロッパを先頭に21世紀へ向けた「新しい階級闘争の時代」が始まろうとしている。もちろんそれは、端緒的開始、あるいは開始に向けた助走に過ぎないと言えるかもしれない。しかし国境を超えて団結した労働者の闘いをさらに前進させることによってしか、歴史的危機に陥った現代資本主義への真のオルタナティブを提起することはできない。
ヨーロッパ各国で新自由主義的政策を推し進めてきた保守諸政党が政権からすべり落ち、すでにEU十五カ国中、11カ国で社民系政権が成立しており、うちドイツ、フランス、イタリア、フィンランド、スウェーデンの五カ国では社民―緑政権が成立している。階級的闘いへの確信を失った日本の左翼諸勢力の中に、社民と緑連合への期待、とりわけ緑の党への幻想が広がっている。
日本の中で、ヨーロッパを先頭にして開始しつつある「新しい階級闘争の時代」を実感することができるのは、残念ながらわれわれだけである。インターナショナルの死活的重要性が、これによってあらためて明らかになっている。この実感がなければ、新自由主義に一定のブレーキをかけているように見える、あるいは新自由主義と対決する労働者の期待を集めているように見える社民政権への幻想が深まるのはむしろ当然である。日本において労働運動は社会的規定力をほとんど喪失しており、当面、それを回復する展望は見えない。その中で、日本における社会党の無残なまでの崩壊と比べた時、ヨーロッパ社民の「力」は日本の左翼勢力の中に大きな幻想を生じさせているのである。
しかしヨーロッパ社民は、80年代を通じて労働者の圧力から自らを解き放つのに全力をあげてきた。そのような傾向を最も典型的に示しているのが、財界の会合で「サッチャー路線の継承」を公言し拍手喝采を浴びたブレアのニュー労働党である。ブレアが、ヨーロッパにおけるクリントンの最も強力な同盟者としてイラク空爆やユーゴ空爆を主導しているのは、むしろ当然である。
日本の左翼勢力が、最も大きな幻想を抱いているのは、言うまでもなく緑の党である。たしかに緑の党は、現代資本主義にとってきわめて解決困難なエコロジーの危機を告発し、現代資本主義の拡大再生産システムとしての「大衆消費社会」に代わる新しいライフスタイルを提起し、行動を組織することを通じて、社会的規定力のある政治勢力となった。
しかし、緑の党は80年代から90年代にかけた大衆運動の後退の中で右傾化を進行させ、社民との連立政権に踏み込むことを通じて、ブルジョア支配体制の運営に直接責任を負う位置についてしまった。今日のヨーロッパ社民の政策は、雇用をはじめ自らの権利を守ろうとする労働者の闘いと多国籍資本の新自由主義政策との間に、何とか折り合いをつけることであり、力点は言うまでもなく後者にかかっている。労働者の大衆的で階級的な闘いがなければ、結局のところ多国籍資本の新自由主義的政策が自己を貫徹する。そのことは、たとえばこの間のフランスの反失業闘争がはっきりと示している。
フランスでもドイツでも、政権の座についた緑の党が、原発の問題でもNATOの問題でも当初の要求を大きく後退させているのは明らかである。ブルジョア社会としてのヨーロッパ各国の運営と支配に直接の責任を持ってしまった緑の党は、自らの「非暴力・非戦」の理念を投げ捨て、ユーゴ空爆を積極的に支持することによって、侵略戦争に手を染めるところまで転落した。緑の党は劣化ウラン弾による「新しい核戦争」さえも容認し、反核・反原発の理念も踏みにじった。それはまさに、「緑の党にとっての1914年8月である。まさに緑の党は、われわれの言う「リベラルのワナ」に落ち込んでしまっているのである。核心は、新自由主義をますます強めざるを得ないヨーロッパの資本主義経済を、労働者人民の抵抗闘争をなだめすかしながら運営するための方策なのか、労働者人民のヨーロッパのための闘争的対案なのか、ということである。緑の党は明らかに前者の立場をとっており、そこからユーゴ空爆支持も必然化されてしまうのである。
d 求められているのは新自由主義への闘争的対案である
歴史的行き詰まりに直面した現代資本主義の新自由主義的攻撃に対決するインターナショナルな闘いを、日本においても登場させることが問われている。しかし、そのような闘いの端緒的開始を実現し、21世紀に向けて「新しい階級闘争の時代」を切り開こうとしているヨーロッパに比べて、日本ではきわめて重大な主体的困難性が存在している。
日本では、ストライキをはじめとする労働運動の歴史的連続性が、実感をともなった大衆的経験としては断絶してしまったと言い得る状況にある。大民間や大手単産、単組になればなるほど、構成組織にストライキを指導したことのある経験者や職場闘争オルグ経験者がいない。独立少数派組合や全労協系中小労組の一部をのぞいて、左派労組もその例外ではなく、しかも活動家層の高齢化が著しい。青年を闘争的に獲得し組織することに成功しているところはほとんどなく、仮にあったとしてもエピソードの域を出ない。
そして大民間労組を中心に、よりいっそうの労資一体化への道を突き進み、能力主義・成果主義賃金体系を自ら受け入れる労組も出始めている。それは日経連の「集団的労使関係」の解体と「個別的労使関係」への移行という路線、すなわち労働組合運動の最後的解体の道を自ら受け入れようとするものである。資本や政府に対して集団的抵抗を行うことによって自らの雇用や労働条件を守ろうとする姿勢そのものが、いまや風化しつつある。99春闘で、ゼンキン連合は賃金や一時金の遅配の恐れがある中小企業に、組合の闘争資金から資金を貸し出す「立て替え払い制度」を発足させた。ある程度の「焦げ付き」は覚悟しているという。政府が労働者人民から徴収した税金を金融機関に何10兆円も注ぎ込む一方で、労働組合もストライキ資金を焦げ付き覚悟で企業に貸し出すというのだ。「消費拡大に寄与する」と称して、地域振興券よろしく組合の闘争資金でデパートの商品券を買い、全組合員に配った自治労系現業労組もあらわれた。われわれの前には、このような否定的現実がある。
ヨーロッパ労働運動の今日的再生の中軸を担っているのは、「68年5月革命世代」である。彼らは80年代後半の後退局面で踏みとどまり、労働運動やさまざまな社会運動の中心でそれを支え一定の社会的力を維持することに成功してきた。これに対して日本の全共闘世代は、70年代、80年代を通じて企業社会にほぼ全面的に抱摂されてしまった。もちろん、独立左派労働運動や反原発・エコロジーなどの社会運動の中心を支えてきたのは、日本でも全共闘世代であったが、「層」として生き残ることに成功しなかった。
そして全共闘世代の政治的表現であった革命的左翼勢力が、連合赤軍のリンチ殺人事件や東アジア反日武装戦線の無差別テロ、そして革マル派、中核派、解放派間の三ケタの死者を出した長期にわたる内ゲバ戦争と腐敗したカンパニア主義的テロの結果として、学生運動の再生産構造を自ら破壊し、労働運動との結合を自ら断つことによって、労働運動主流の全面的右傾化を容易にさせた。そして内ゲバ主義と腐敗したテロリズムに抗して「68年に始まった政治的サイクル」の成果を防衛してきたわれわれが、組織内女性差別問題を通じて組織的崩壊状況に陥ったことは、スターリニズムと社会民主主義の外側に形成されてきた左翼的規定力を失わせる重大な主体的要因となった。
こうした主体的要因の複合した結果として、反戦・反安保闘争などの政治闘争や反原発運動などのエコロジー運動も、部分的、あるいは一時的例外を除いて、それぞれ宣伝のための運動や自らの歴史的連続性を防衛するための運動という状況に追いつめられている。政府・資本や行政に自らの運動の力で要求を強制するというより、社民党や共産党、あるいは民主党へのロビー活動を通じて、間接的に社会的規定力をおよぼそうとするしかないところにまで、運動の力を大きく後退させてしまっている。
そしてその社民党は、村山政権下で安保・自衛隊・原発を容認し「新ガイドライン反対」とは言っても「安保反対」とは絶対に言わない社民党であり、共産党は全世界で新自由主義が労働者の闘いとった諸権利をはく奪する時代に「ルールある資本主義」「よりまし資本主義」の幻想を振りまき、「安保堅持論者との暫定連合政権」という「不破政権構想」を打ち出して、社民化の道を突き進んでいる。
このような状況は、労働運動からの召還、全国政治闘争を維持し強化しようとする努力からの召還をもたらすと同時に、社会的規定力をある程度およぼすことができ部分的には実感できる成果を実現することが可能な地域の運動や、地域の「制度圏」の運動への自己限定という傾向を強めさせることになる。ヨーロッパの緑の党が陥った体制に内在する勢力への後退よりも、さらに重大な危険性がそこにある。それは左翼運動全体の解体と消滅の現実性であり、残存左翼運動全体が右へ大きく軸心を移動させた旧社会党のミニ版的存在に転落してしまうということである。現にそのような過程は進行しつつある。このような危険性を自覚することが、決定的に重要である。
日本でも求められているのは、保守派とも連合し体制内でも多数を獲得することができる平和へのオルタナティブ(かつてのハーフ・オプション論と同様にそれは幻想である)ではなく、帝国主義的侵略と戦争の日常化に対決する闘争的対案であり、「消費をあたためれば景気は回復する」という日本共産党の「よりまし資本主義」的オルタナティブではなく、雇用破壊に抗し社会のあり方全体の根本的転換を迫る闘争的対案である。
戦後資本主義の歴史的行き詰まり
a 過剰資本の肥大化とカジノ資本主義化
日本のバブル崩壊に始まって、アジアから中南米、ロシア、ヨーロッパ、アメリカへ波及しつつある今日の世界的金融危機と恐慌の始まりは、第二次世界大戦の惨害の上にモータリゼーションを軸にした「大衆消費社会」として自己を形成してきた現代資本主義が、決定的な歴史的限界に突き当たったことを表現するものである。その行き詰まりと危機は、戦後世界資本主義の復興とその後の高度経済成長を組織したアメリカ帝国主義の絶対的力がベトナム革命によって突き崩され、同時に日本とヨーロッパの経済発展によってアメリカ経済の地盤沈下が始まったことに端を発している。
戦後世界資本主義の復興と安定を保障したのは、巨大な金準備によってその価値を保証されたドルの力であった。しかし戦後復興の資金を提供したドル散布によって実際に日本やヨーロッパの復興が実現し、輸出競争力が強まっていくにしたがって、世界的な「ドル過剰」が進行した。世界支配体制の維持のために投じられた巨額の軍事支出が、それを促進した。この点で決定的だったのは、ベトナム戦争へのすさまじい軍事費支出だった。過剰なドルが生産過程と切り離されて国際的に大量に滞留し、ドルの信頼が揺らぎ始め、金準備は流出し続けた。そして71年にはアメリカは金とドルの交換停止に追い込まれ、73年には各国の主要通貨が、ドルを軸にした固定相場制から変動相場制に移行した。アメリカは、金とドルの結びつきを断つことによって、国際収支をバランスさせようとする節度を失い、ドルが基軸通貨であるということだけに依拠して金の裏付けのない紙幣をどんどん流出させるようになった。それは世界的インフレの基盤となった。
世界的インフレの中で原油価格が極度に安いままだったことに反発を強めていた中東産油国が、73年10月の第四次中東戦争を機に原油価格大幅引き上げに踏み切り(第一次石油危機)、これをきっかけに74年~75年にかけて資本主義各国は深刻な世界同時不況に突入した。戦後資本主義の高度成長は終わり、低成長時代が始まった。深刻な不況は消費や設備投資を冷え込ませ、過剰資本をさらに蓄積させることになった。生産過程に入り込まない過剰資本の肥大化は、金融の投機化を促進した。不況の中で行き所を失った過剰資本は、第三世界に貸し込まれた。多国籍企業が持ち込んだ現地の実情に合わない過大な工業化や開発計画は破綻し、82年のメキシコから第三世界の累積債務危機が一挙に表面化した。第三世界はIMFの支配下で社会保障費の大幅削減や公務員の大量解雇、民営化を強制され、しぼり出したカネを利子や借金の返済に当てることを強制された。国際的資金の流れは逆転し、失業や飢餓が広がった。
第三世界の累積債務危機は、ふくれ上がる過剰資本を証券、為替、土地などの投機の場へさらに押しやり、「カジノ資本主義」化が進行した。それはアメリカが強力に推し進めた、過剰資本に自由な投機の機会を提供するための「金融自由化」の進行と一体だった。たとえば日本では、それは中曽根政権の規制緩和・民活路線と連動し、土地投機を柱とするバブルを発生させた。バブルの中で大企業は自己金融力を強化し、自ら「財テク」と称して土地や株の投機に走った。銀行はますます通常の融資の場を失い、さらに深く投機にのめり込む中でバブルは破綻し、一気に深刻な金融危機が広がった。
本来の金融活動は、生産過程と結びついたものである。金融収益としての利子は、生産活動が生み出す剰余価値の一部である。したがって、金融収益が増大するためには、本来ならば生産規模が拡大し、価値増殖過程が拡大していくことが必要である。しかし、生産過程に入り込むことのできない過剰資本が獲得しようとする金融収益は、生産過程の外側から、より一層多くの剰余価値の取り分を要求するものにほかならない。現実的基盤の強化・拡大と切り離された形で金融収益だけが拡大し続けることは不可能であり、したがってバブルは必然的に破綻せざるを得ないのである。
こうして、資本主義の行き詰まりと膨大な過剰資本の形成を背景に、一方における債権(不良債権も含む)の増大と他方における債務の増大の中で自転車操業的に自己回転してきた「カジノ資本主義」は、いま歴史的な破綻と崩壊の局面に突入したのである。
b 自転車操業の政策的袋小路
国家資金投入による有効需要創出というケインズ政策が、戦後資本主義のフォーディズム的発展を支える政策的柱であった。しかしそれは、73年の第一次石油危機をきっかけにした74から75年の世界同時不況以降、急速にその矛盾を激化させていった。各国で、財政赤字の圧力が急増し始めたのである。
その中で、「ケインズ主義の破産」が声高に語られ、新自由主義派が各国の経済政策を支配していった。レーガノミックス、サッチャリズムの登場である。その政策的柱は、公営企業の民営化と規制緩和、福祉切り捨て、大企業減税と累進制の解体による金持ち減税、消費税など間接税による大衆増税であった。
しかし、長期化する不況と大企業減税による税収減は、福祉切り捨てや大衆増税でもカバーできず、財政赤字はさらに進行した。たとえばレーガン政権が登場した81年に9000億ドル台だった米政府の債務は、彼が8年後に政権の座を去る時にはその約3倍の2兆6000億ドルに達していた。もちろん財政危機の悪化は、各国政府に社会保障切り捨てをさらに強化させる圧力となった。
しかし大量に発行され続ける国債は、不況と大企業の自己金融化の進行の中で、ますます行き所のなくなった膨大な過剰資本に安定した収益を保証するものでもあった。すなわち、歴史的限界に直面した現代資本主義は、ふくれ上がるゼネコン政治的財政支出に、産業資本も金融資本も徹底的に寄生することによって延命してきたのである。新自由主義経済学者やブルジョア政治家が叫ぶ「小さな政府」的政策は、労働者人民の生活にかかわる分野でしか遂行されなかった。資本にとってはますます「大きな政府」になっていったのである。言うまでもなく、財政赤字は無限に肥大化し続けることはできない。
このような自転車操業は、国際的にも国内的にもいよいよ限界に突き当たった。小渕政権が「景気対策」として野放図に発行する大量の国債は、いまや市場の金融機関だけでは処理できず、その過半を大蔵省が財投資金で購入するという異常な事態になっている。金融市場に国債があふれた結果、国債価格の急落と長期金利の急上昇をもたらすという状況が始まっている。長期金利上昇は、不良債権にあえぐ出口なき不況下の日本経済に重大な打撃となる。また、日本の長期金利の上昇は、日本やヨーロッパとの金利差を条件のひとつとしてアメリカに流れ込んでいた国際的な資金の流れに重大な影響を与えかねない。この国際的資金の流れがストップすれば、アメリカのバブルは崩壊する。だからこそクリントン政府の中からも日本の政府・財界からも国債の日銀引き受けに踏み切れという大合唱がわき起こったのだ。
しかし、政府発行の国債を日銀が無制限に引き受けるということは、財政節度の最後的崩壊であり、第二次大戦中に戦費調達のために行われた手法を平時に採用するということである。この戦時公債は、戦後インフレの爆発で国債が紙ペラ同然になることによって「解消」された。国債の日銀引き受けとは、このような「非常手段」によってしか解決できないところにまで、財政危機を肥大化させるということであり、通常の経済政策による「財政再建」を最終的に放棄するということに他ならない。そして小渕政権は、財投資金で大蔵省に大量の国債を購入させることによって、半歩すでにこの道に入り込んでいるのである。また、政府がこの3月期に大手14行に注入した7兆円余の公的資金の大半も、日銀からの「借金」である。今後の追加注入のたびに、政府の日銀への「借金」が増えていく。このような政策的袋小路から脱出する展望はない。
c アメリカのバブルによる延命は限界に来た
この間、世界経済はアメリカ経済がバブル的に肥大化し、貿易赤字、経常赤字を激増させることによって維持されてきた。98年の経常赤字は前年比50・4%増の2334億ドルとなり、過去最悪の記録を更新した。99年には3000億ドルを超えると見られている。当然のことながら、この巨額の赤字は海外からの資金流入でファイナンスしなければならないが、3000億ドルと言えば、日本とヨーロッパの経常黒字の合計約2500億ドルをすべて注ぎ込んでも足りない額である。海外からの巨額の資金流入が膨大な赤字をファイナンスし、株価を押し上げ、その資産効果でGDPの6割を占める個人消費が過熱し、バブル景気が膨らみ、その過剰消費による輸入増で深刻な不況下にある日本やヨーロッパやアジア各国の経済がかろうじて息をついている。このような構造が永続化しえないことはほとんど説明を要しない。アメリカ経済の激増する対外赤字をまかなう資金は、あくまでも金利を支払わなければならない借金である。対外累積債務はすでに1兆5000億ドルに達している。過熱する個人消費によって、アメリカの貯蓄率はマイナス0・1%という異常な状態になっている。つまり、借金をして株を買い、その資産効果で過剰な消費が維持されているのである。海外からの資金流入が止まれば、バブルは崩壊する。
アメリカのグリーンスパン連邦準備制度理事会(FRB)議長が「根拠なき株高」という警告を発したのは96年12月であった。当時のニューヨーク市場株価は6400ドルであった。そして99年3月、遂に株価は1万ドルの大台を突破した。グリーンスパンの警告から2年3カ月で、56%の急騰である。まさに「根拠なき株高」である。82年のニューヨーク株価は1000ドル台であった。そして82年以来今日まで、アメリカの名目GNPは2・6倍にしか増えていないのに、株価は10倍を超えてしまった。その一方で、株式配当利回りは日本のバブル期と同様に急落し、80年代初頭の5%から今日の1%台へと大幅に低下している。アメリカ経済が質的に改善し、投資効率が上昇したため株価が高騰しているという見方は、アメリカ政府の経済データで見ても根拠のない「神話」である。サラ金による過剰消費が結局はサラ金地獄に陥るのと同様に、国際的借金によるバブル経済が破綻することは疑いない。そしてアメリカのバブル崩壊は、97年アジア通貨・金融恐慌をもって開始された世界恐慌を、全世界的により一層、深刻化させるものとなるだろう。
われわれは、このような戦後資本主義の深刻きわまりない歴史的行き詰まりの中で21世紀を迎えようとしている。この中で世界社会主義革命運動の世界的再生をめざす闘いに挑戦しなければならない。
新自由主義への闘争的対案を作り出すために
雇用破壊政策とどのように闘うのか
a 完全失業率5%の意味するもの
a-1 最悪の失業率の現実
6月1日に発表された総務庁の労働力調査で、今年5月の「完全失業率」は前月に続いて過去最悪の4・8%となり、とりわけ男性の完全失業率は初めて5%の大台に乗った。完全失業者数も過去最多の342万人となり、解雇や倒産などによる非自発的離職による完全失業者が115万人、転職などのためとされる「自発的離職」による完全失業者数を、11年4カ月振りに上まわるという状況になった。もちろん「自発的失業」とは言っても、執拗な肩たたきや「リストラ部屋」にたたき込んで仕事を与えないなど、ありとあらゆる手口で、退職を自ら「希望」するところに追いんでいるのである。
日本の「完全失業率」が、失業の実態とかけはなれていることは、すでに広く知られるようになっている。ここでは3つの点だけを指摘しておく。第一に、総務庁の就業構造基本調査で、「無業者」(仕事を持たない者)とされた人のうち、就業希望者(仕事がしたいけれども仕事がない人)が950万人を超えており、「完全失業者」数の3倍近くに達していること。第2に、日本では調査月の最終週に一時間働いただけで「就業者」にカウントされてしまうのに対して、たとえばフランスでは月に78時間以下しか働いていない者は失業者にカウントされていること。第3に、労働力調査を開始した当時、労働省自身が「日本の完全失業率の定義は狭すぎて失業の実態をあらわすものではない」と述べていたこと――。
すなわち、日本の失業はその実態においてヨーロッパ並みの10%台を超えていることは確実である。とりわけ15歳から24歳の青年層は「完全失業率」でもすでに10%台になっており、「学卒未就職者」という名の就職浪人は四月に入って23万人を超えていた。
しかも、就職をあきらめて大学院や各種学校に再入学したり、家庭に戻る新規学卒者が激増している。91年には85%を超えていた短大卒の就職者は、99年には前年比6・7ポイント減の59%、同様に80%だった大卒者の就職率は同四ポイント減の61・6%となった。かつては新卒と同時に就職していた青年たちが、すぐに就職することをあきらめて他に道を探すことによっても、「完全失業率」は低くおさえられているのである。
a-2 86兆円の需給ギャップ
この大量失業は、今後ますます加速する。この間、日本を代表する大企業が次々に大規模な首切り=リストラ計画を発表している。電機関係ではNECが3年間で1万5000人、ソニーが2002年度末にまでに1万4500人、日立製作所が99年度中に6500人、東芝が九九年度末までに6000人、三洋電機が2001年度末までに6000人。自動車では日産ディーゼルが20000年度までに3000人、日産自動車が2000人。その他、鉄鋼などの金属、化学、ダイエー・西武などの流通、銀行・生保などの金融業に至るまで、業種の別なく大リストラ計画が並んでいる。
第二次大戦後の世界資本主義の成長を主導してきた大量生産・大量消費のフォーディズム的生産・蓄積システムは完全に行き詰まり、資本のグローバル化とともに、過剰な現実資本を廃棄するプロセスとしての世界恐慌は、すでに進行中なのである。
経済企画庁は、国内には約86兆円の需給ギャップがあるという試算を発表している。日本のGDP(国内総生産)は景気後退のなかで500兆円を切り、98年度には494兆円となった。500兆円弱の経済規模で86兆円の供給力過剰=設備過剰というのは、きわめて大きい。過剰設備があれば操業率は低く、利益は上がらない。
98年度の自動車生産は、1000万台の大台を20年振りに割り込んだ。ピーク時の90年には1350万台生産していた。すなわち300万台分以上の余剰設備が存在することになる。鉄鋼では、98年度の粗鋼生産量は9098万トンと27年振りの低水準となった。これに対して現有生産能力は1億2000万トンである。NKKや川崎製鉄といった高炉メーカー2社分の設備が余剰となっていることになる。
宮沢蔵相は今年3月30日の記者会見で次のように述べた。「産業界、金融界をあげて過剰設備の廃棄に取り組んでもらいたいし、そうすればさらに雇用は悪くなると思わなきゃいけない。政府としては、法制、税制、企業会計などあらゆる面で支援していく」。首切り促進を支えるために、あらゆることをすると財界を激励したのである。
a-3 「競争力強化」とは何なのか
政府も財界も「過剰設備、過剰雇用を抱えていては大競争に勝てない」と主張している。四月末から訪米した小渕首相は、三月の完全失業率が史上最悪の4・8%となったことについて「これこそが日本の経済に活力と競争力をふたたび取り戻す上で避けて通ることのできない、規制緩和をふくむ構造改革の結果だ」と、むしろ誇らしげに語った。
小渕や経団連会長の今井敬ら、あるいは中谷巌や竹中平蔵などの御用学者らが語る「競争力の強化」とは、これまでのようなフォーディズム的大量生産のコストと品質をめぐる国際競争力のことではない。周知のように長引く不況の中で日本はいまなお世界最大の貿易黒字国である。すなわち製品の品質とコストという意味の国際競争力、超長時間・過密労働、過労死労働によって作り出されてきた国際競争力は、いまなお主要製造業で世界のトップクラスである。
他方で「一人勝ち」と言われるアメリカは、毎年貿易赤字、経常赤字の最悪の記録を更新し続ける、世界最大の借金大国である。しかし、情報通信産業をはじめ80年代に徹底したリストラをやり抜いたいくつかの最先端分野産業の利潤率は高く、従って株価も高く、行き所のない日本やヨーロッパの貿易黒字を引き込んでバブルをふくらませる核となっている。そしてバブルでさらに強まった収益力によって海外大企業を吸収あるいは合併し、資本参加し、世界経済への支配力を強化しているのである。
小渕政権や財界、御用学者が言う「競争力の強化」とは、このような資本の収益力の強化、利潤率の回復と上昇による世界経済への支配力の強化にほかならない。そのためには、徹底したリストラを労働者に押しつけ、大量の首を切り、賃金を切り下げることが必要だと言うのだ。
4月5日に発表された日銀短観は、99年度の経常増益率が大企業・製造業で21%、非製造業で8%も、大幅に改善されると予測している。ところが九九年度の売上高予想は0・1%増でほぼ横バイである。すなわち、売上高が増えないのに利益を大幅に増やすためには、労働者の首を切り、賃金を切り下げるしかないということになる。
6月11日に小渕政権が発表した「緊急雇用・産業競争力強化策」は、まさにこのような目的のために打ち出されたものである。
b 政府の雇用・競争力強化政策とは
この小渕政権の「緊急雇用・産業競争力強化策」を、不況で失業が増えたので雇用を増加する政策をやり、その不況から脱出するために産業基盤を強化するというように、素直に理解してはならない。
まず第一にそれは、「銀行には公的資金を60兆円注ぎ込んで不良債権対策をやった。次は産業界のバブルのあとしまつのために、借金棒引きや過剰設備処理のための税制上の優遇策などをあらゆる方法で推し進める」ということであり、第二に、大企業が徹底してリストラ合理化と大量首切り、大幅賃下げを行いやすくするための法的整備を強力に推し進めるということである。
しかし、あまりにも激しいリストラで失業率が急上昇しては深刻な社会問題化しかねないし、政権基盤にもヒビが入りかねない。だから、一応「雇用対策」にも力を入れているというポーズを、全く中味のない「70万人雇用創出」の数字を一人歩きさせることで作っているにすぎない。
b-1 あらゆる手段でリストラ支援
政策の中味について、簡単に触れておこう。7月2日、「産業競争力強化策」を具体化するものとして自自両党が打ち出した「産業再生法案」の最大の柱は、誤解の余地なく「企業の事業再構築(リストラ)支援」と銘打たれている。
企業が合理化計画や中長期的な事業計画、収益見通しを示す「リストラ計画」を通産省など主務官庁に提出し、認定を受けたうえで次のような特例措置を受ける。①分社化の手続きの簡素化、債務の一括移転などを商法の特例とする②「債務の株式化」の環境整備③日本開発銀行からの低利融資などの資金供給④税制上の優遇措置――。
リストラ支援の特例措置のうち、分社化手続きの簡素化とは、すでに賃下げや首切りの手段として活用されている分社化を、さらにスピーディーに行えるようにするというものだ。企業の各部門をそれぞれ名目的に独立した会社にし、いったん全社員を解雇して分社化した各部門で再雇用するというのは、ほとんど流行のようになりつつある。もちろん労働条件は大幅に切り下げられる。
日本IBMでは、総務・財務・人事部門まで子会社化され、賃金を45%カットされた元社員が、同じ職場で派遣労働者として同じ仕事をしているという。このようなやり方が、労働者派遣法改悪が行われる前にすでに横行していたのだ。
分社化促進は、「債務の一括移転」が公然とうたわれているように、不採算部門の切り捨てとも一体である。
「債務の株式化」も財界が強く求めていたものだ。政府から60兆円の公的資金の投入を受ける金融機関が、今度は経営が悪化した企業の債務を免除するかわりに、その企業の株式を取得するということであり、言うまでもなく事実上の借金棒引きにほかならず、「産業界の徳政令」である。
税制上の優遇措置とは、①大規模な設備廃棄の際に欠損金を利益と相殺できる繰越期間を五年から七年に延長。あるいは前年度の法人税から欠損金に見合う部分を繰り戻し還付する②土地などの資産を処分した譲渡益で新たな投資を行う場合は課税対象を減額。不動産取得税も軽減③共同で子会社を設立する場合、子会社への現物出資分への譲渡益課税を繰り延べ。新会社設立の登録免許税を半額に減額④新分野への新規投資に大幅な特別償却その他、その他。まさに至れり尽くせりである。
これだけではない。企業がかかえる大量の遊休地を、民間都市開発推進機構(民都機構)や住宅都市整備公団(住都公団)を通じて公的資金で買い上げてやるという政策もある。各大企業は、バブル期の野放図かつ乱脈な土地投機で大量の不良不動産をかかえ込んでいるばかりか、大規模な設備廃棄、工場閉鎖の進行によって、ますます大量の遊休地をかかえ込むことになる。
このような遊休地は、工業専用地域の網がかかっていることが多く、そのままでは住宅も商業施設も建てられず、したがってそんな土地はだれも買わない。しかも今日の大不況の中で、そんな大規模な土地の買い手はいない。
だから、工業専用地域、工業地域などの用途地域の変更を円滑化する措置をとるとともに、その土地を民都機構と住都公団が買い取るというわけなのだ。
b-2 「緊急雇用対策」のデタラメ
まさに至れり尽くせりの「産業競争力強化策」=大リストラ支援策と比べると、「緊急雇用対策」は文字通り絵に書いたモチである。「70万人の雇用創出」と大々的に打ち出されてはいるが、その数字に具体的な根拠や可能性があるわけでは全くない。
たとえば、情報通信などの成長産業が中高年の非自発的失業者を採用する場合に奨励金を支給する制度で、「雇用増大効果15万人」とされている。しかし情報通信分野は、国際的にも最も激しい競争戦の中にあり、まさに「競って」リストラ合理化を進めている。85年4月の民営化当時31万4000人だったNTT職員は、99年7月1日の分割と持株会社発足時には各社合計で13万8500百人にまで減少してしまった。強制的に割り当てでもしないかぎり、わずかな奨励金でリストラ計画を変更するような企業はほとんどない。
「緊急雇用対策」の最大の売り物は、「雇用増大効果30万人強」とうたわれる「国、地方公共団体による臨時応急の雇用、就業機会の創出」である。コンピュータが使えたり外国語ができるといった中高年失業者を小中学校の臨時講師にするとか、法令・予算などの情報をデジタル化する作業を民間に委託するなどで「30万人強」の雇用を創出するというわけだ。
しかし、国と自治体による雇用とは言っても、2年間の時限措置で、予算措置も2年分で2000億円だけである。これで仮に30万人を2年間雇用すると、労働者一人に対する1カ月の支給額は2万7800円にすぎない。しかも、民間委託事業が中心であるから、その民間企業の利潤や諸経費を差し引けば月額の一人当たり支給額は2万円をはるかに下回ることになる。
月に2万円以下でいいから就職したいと考えている中高年の失業者は一人もいない。それでは生活できないからだ。すなわち「70万人の雇用創出」というのは、何の根拠もない無責任きわまりない単なる数字にすぎないのである。
しかも、6月11日に発表された「緊急雇用対策」には、「ミスマッチの解消、円滑な労働移動のため、職業安定法改正案、労働者派遣法改正案の早期成立」という項目までかかげられていた。正規雇用労働者を減らし、いつでも首が切れて低賃金でボーナスも定期昇給も退職金もない無権利の派遣労働者に取り替えてしまうことが、なぜ「雇用対策」なのか。
東京都が行った98年の派遣労働に関する実態調査では、企業が派遣労働者を利用する理由で最も回答数が多かったのが「従業員数の抑制」(37・6%)であった。「賃金コスト削減」も26・8%に上っていた。自自公連合と財界にとって「雇用対策」とは首切りであり、賃下げなのである。
c 矛盾深める景気対策の袋小路
6月10日に発表された99年一―3月期の国内総生産(GDP)は、1・9%(年率7・9%)という大幅なプラス成長となり、堺屋経企庁長官は「ホンマかいな」と浮かれて見せた。いかに第二次大戦後の資本主義が歴史的限界に突き当たり、その発展の可能性を汲み尽くしてしまったといっても、一直線に低下しつづけるわけではない。在庫調整が進行すればある程度の生産回復は当然であり、資本主義が生きている限り、いかにそれが弱々しくとも景気循環は不可避的に起きる。
しかしこの突然の「景気回復」は、そのようなものでさえない。それは、98年度に行われた史上空前の超大型経済対策によって作り出された、いわば「覚醒剤効果」によるものでしかない。
橋本政権が事業規模で約17兆円という史上最大の経済対策を策定したのは、98年4月であった。その半年後の11月には、小渕政権がそれを上回る23兆円の緊急経済対策を決定した。金融危機をめぐっては、総額60兆円の公的資金投入が決定され、銀行の貸し渋り対策として中小企業への信用保証枠20兆円が設定され、それぞれ実施に移されている。合計120兆円である。98年度のGDPは494兆であり、実にその四分の一もの経済対策が行われてきたにもかかわらず、98年度の経済成長率は四つの四半期のすべてでマイナスとなり、一年間では2・0%という過去最大のマイナス成長となったことの方が、一時的なプラス成長への転換より重大である。それは、日本資本主義が陥った危機の深さを象徴するものである。
98年度には34兆円の新規国債が発行され、99年度に現在予定されている新規発行額も31兆円に上っている。
95年12月、財政制度審議会は急速に悪化しつつある日本の財政状況について「たとえて言うならば、近い将来において破裂することが予想される大きな時限爆弾を抱えた状態」と警告した。95年度予算の国債発行額は21兆円、年度末の国債発行残高は225兆円、国と地方の長期債務残高は410兆円でそのGDP比は83・8%であった。ところが、99年度末の国債発行残高は327兆円で、国と地方の長期債務残高は600兆円となり、GDP比も実に120%に達してしまうことになっている。
公的債務がGDPを上回るという状況では、GDP成長率が長期金利の水準以上に上昇しなければ、累積債務に対する巨額の利払いのために債務は雪だるま式に増えていく。これこそ、3年前に財政制度審議会が警告した「時限爆弾」の爆発であり、国家破産の現実化である。
そして、あまりにも大量の国債が発行されると、市中の資金がその購入にあてられるために市中の資金が不足し、金利が上昇する。すでに今年一月から、一時は0・8%に低落していた長期金利が上昇し始め、たちまち2・4%にまで上昇した。長期金利上昇は、住宅金利をはじめる各種の金利に連動し、息もたえだえの状態にある景気に冷水を浴びせかける。日銀は、大量の資金を市場にあふれさせて、コール市場などの短期資金金利を実質ゼロにするというアクロバットを演ずることによって、長期金利を一時的に下げることに成功した。しかしもう後はない。そして再び金利は上昇し始めている。
超大型の景気対策は、この秋には息切れするとされており、自民党や財界からは大型補正予算要求が上がり始めている。しかし大型補正予算で新たな大量の国債を発行すれば、長期金利のより一層の上昇は免れない。政策的袋小路はますます深刻になっていきつつある。
d リストラはこれから本格化する
経済企画庁が言う「86兆円の需給ギャップ」を解消するための設備廃棄はこれから本格化する。したがって、すさまじいリストラ合理化、大量首切りはこれから本格化するのである。設備投資は減少し続けており、ますます深刻化する雇用不安の中で個人消費も減少し続けていく。2000年度に介護保険がスタートするが、約2兆円の保険料が事実上の新たな税金として徴収される。それもまた、消費税が3%から5%に増税された時と同様の打撃を、景気に与えるだろう。
もちろん、大企業は設備廃棄ばかりするわけではない。新たな設備投資を行わなければ、激烈な国際競争戦に生き残ることはできない。しかし行われる設備投資の中心は、省力化投資、すなわち人員削減のための投資である。富士通ファナックの無人工場が有名になったのは、もう10年も前のことだが、工場もオフィスもマイクロコンピュータ化でそのような方向に向かっている。設備投資によって、雇用はむしろ減少する。
バブル崩壊以降、製造業を中心にして吐き出される大量の労働力の受け皿になってきたのは、毎年毎年景気対策として積み上げられる何兆円、何十兆円もの公共投資の増大で潤ってきた建設業であった。
その就業者数は、97年8月には戦後最多の700万人に達した。しかしそれ以降、有害無益の大規模開発型公共事業への批判の高まりや国と地方を問わない財政危機の深刻化に加え、公共事業ではカバーしきれないほどの民間需要の減少の中で、99年2月まで16カ月連続で前年同月比減を続け、2月にはピーク時より50万人も減少して647万人となった。
小渕政権の「緊急雇用対策及び産業競争力強化対策」は、すでに見たようにリストラ強化策にほかならず、雇用は増加しないし、むしろ減少していかざるを得ないだろう。小渕首相の諮問機関である経済戦略会議報告では、中高年失業者のコンピューター教育などへの助成金(能力開発バウチャー)などの思いつきが語られた。しかしコンピュータ教育などを受けても仕事に就ける保証はない。
東京・錦糸町に雇用促進事業団のホワイトカラー向け職業訓練施設「アビリティ・ガーデン」がある。6カ月の無料職業訓練を受けて就職先をさがす。今年3月に講習を終えた三期生98人のうち、33人しか就職できていない。45歳以上の有効求人倍率は0・18にまで低下した。すなわち、リストラされた中高年労働者には、再就職の道はほとんど閉ざされているのである。そして高校卒、大学卒の青年の就職難もまた、厳しさの度を加えている。資本主義は、労働者に安定した雇用の道を閉ざすことによって「大競争の時代」を生き延びようとしているのである。
e 何を要求して闘うべきなのか
資本主義のメカニズムによって雇用と就労権を確保できないとすれば、労働者の運動の力によって、政治と制度の力によって確保するしかない。
e-1 不当解雇の法的制限を
第一は、吹き荒れる不当解雇を法的に制限することである。最高裁の判例では、①差し迫った解雇の必要性②解雇を回避するための最大限の努力③解雇人選の合理性④労働者側への十分な説明――の四つの条件を満たさない、企業の一方的都合による解雇はしてはならないことになっている。
ところが現実には、偽装倒産・別会社設立等による差別的不当解雇や、労働条件を切り下げてその一部を子会社で再雇用し、以前と同じ仕事をさせるなどのデタラメがまかり通っている。企業に最高裁判例の解雇四条件を厳格に守らせることが必要である。
全労協は、このような解雇四条件を満たし、労働組合あるいは民主的手続きによって労働者の過半数を代表する者との協議が行われた上でない限り、解雇を行うことができないことを法的に定める「整理解雇制限法案」を提案している。日本共産党も、同様の解雇に対する法的規制を求める法案を提起している。
e-2 雇用保険制度の抜本的改善を
第二は、雇用保険制度の抜本的改善である。保険給付期間は現行「90日~300日」、90日間の延長ができることになっているが、新たな就職先を確保できるまで無期限に延長できるようにすべきである。フランスの失業保険給付期間は1825日(5年間)である。ドイツでは32カ月間である。これらに比べ、日本の給付期間の短かさはきわだっている。
完全失業率が5%に迫り完全失業者が300万人を超えているにもかかわらず、雇用保険受給者は111万人(98年9月)しかいない。これは、失業者の中に雇用保険に加入していなかった者が非常に多いということである。雇用人口約5000万人のうち、3200万人しか雇用保険に入っていない。実に1800万人もの労働者が、何の保障もなく失業の脅威にさらされている。すべての企業・経営者に雇用保険に加入させることは、行政にとって最低限の責任である。給付額は、生活保護の水準を下回ってはならない。
新規学卒者の失業が急増しているが、それは雇用保険の対象外である。したがってより根本的には、失業者全員に対する企業と国庫負担による失業手当制度に変更することが必要である。
たとえばベルギーでは、失業保険の対象にならない新卒失業者には、就職待機手当が与えられる。親の家で暮らす独身者の場合、月額1万1千ベルギーフラン(約3万6千円)だという。20数万人の就職浪人の存在する日本でも、最低限このような措置をただちに導入することが必要である。
e-3 必要な公的雇用の大幅増員を
第三に、民衆の日常生活にとって不可欠な、医療、介護・福祉、教育、防災などの雇用がきわめて不足していることは明白であり、この分野での抜本的増員が必要である。
「患者取り違え手術事件」をはじめとする医療過誤事件の背景に、看護労働者の圧倒的不足がある。ベッド100床当たりの看護職員の数は、日本はアメリカの5分の1、ドイツの2分の1以下である。ドイツ並みにするためにも、100万人以上の増加が必要になる。
2000年4月から介護保険法が実施される。政府は99年度中に新ゴールドプランの目標をほぼ達成できるとしている。しかし新ゴールドプランが達成されても、要介護高齢者の四割しか介護を受けられない。厚生省の試算でも、要介護高齢者のすべてに介護サービスを提供するには、ホームヘルパーをさらに25万人増員することが必要であるとされている。
政府が定めた「消防力の基準」に照して、自治体が保有する消防車両の充足率は、はしご車や化学消防車、救助作業車などで60%前後に過ぎず、基準通りに車両を保有するためには10万人も不足していることが明らかになっている。
少子化が危機感を持って語られている一方で、保育所に申し込んでも入れない待機児が4万人を超えている。預けられる保育所がなくては子どもを産みたくても産めない。無認可保育所に22万人が預けられているが、月5万円、6万円の負担が当たり前になっている。子どもを産めない環境を改善するためには、安い公営の保育所の抜本的拡充と保育労働者の大幅増員が必要である。
クリントン政権は「18人学級の実現」を打ち出している。日本の現状からすれば夢のまた夢だが、30人学級を実現するためだけで7万人の教育労働者を増員する必要がある。
自自公連合は、新自由主義的御用学者と一体となって「公務員定数の削減」をうたっているが、全く逆にいま指摘したような分野を中心に、抜本的に増員することこそ求められているのだ。そもそも日本の公務員数は人口比できわめて少ない。人口千人当たりフランスが93人、イギリスが77人、アメリカが71人、ドイツが61人であるのに対して、日本は37人である(95年総務庁調査)。このような、民衆の日常生活の安定にとって不可欠な公的な雇用だけで、少なくとも200万人の雇用増が必要になるだろう。
そして、その公的雇用には、十分な労働条件が保障されなければならない。国民生活センターが首都圏のホームヘルパー2200人を対象に97年10月に行った調査では、深夜勤務も含め、週40時間、1カ月26日以上働いていても月収16万円以下という人が7割を占め、年次有給休暇がある人も3割に過ぎなかった。このような過酷な労働条件では、たとえ人数が確保されたとしても十分な介護ができるはずがないのである。
e-4 週35時間制の導入を
第四に、より根本的な課題として、労働時間の大幅な短縮を実現しなければならない。民衆の生活や文化の発展にとって有害無益な仕事もきわめて多いが、それはひとまず置く。不況で「仕事がない」からやむなくリストラを進めているわけではない。それを、年間一万人に達する過労死、年間1000人に達する過労自殺の悲惨な現実が明らかにしている。
労働省によれば、日本の労働者の年間総労働時間は90年代に入って一人当たり2000時間を切り、1900時間に近づいているとされている。しかし企業からのアンケートと聞き取り調査による労働省の「毎月勤労統計調査」は、企業が賃金を支払った分の労働時間の合計に過ぎず、全産業的に常態化しているサービス残業が全く含まれていない。これに対して労働者個々人からの聞き取り調査とアンケートによる総務庁の「労働力調査」では、労働者一人当たりの年間総労働時間は常に労働省調査より300時間程度長くなっている。この数年間、総務庁の「労働力調査」による労働時間は、年間2250時間前後の横ばい状態が続き、男性労働者だけで見ると2450時間前後の長時間労働が続いてきた。
年間3000時間前後の超長時間労働を強いられている労働者は「過労死予備軍」と言われている。総務庁調査では、週平均60時間以上、年間3120時間以上働いている「過労死予備軍」は500万人を超えて、96年には577万人(労働者総数の10・9%)に達していた。
ドイツやオランダ、フランスなど、ヨーロッパでは週35時間労働がすでに実現、あるいは現実化しつつあり、年間1500時間労働がかちとられている。ところが日本では、その2倍も働かされる労働者が600万人近くも存在する。平均してもドイツの労働者の1・5倍、1年で18カ月分働かされていることになる。
もし日本の労働者がすべて週35時間、年間1500時間台への大幅自短をかちとったらどうなるだろうか。日本の雇用人口を約5000万とすれば、その1・5倍、7500万人の労働力が必要になる計算になる。完全失業者340万人どころか、「無業者」のうちの就業希望者約1000万人すべてが就業してもまだ足りないということになる。
f 労働運動の全国陣形を作り出そう
f-1 全国闘争が必要である
このような具体的要求をかかげた闘いは、グローバル化の中で21世紀に向けて勝ち残ろうとする資本の政策と、正面から衝突するものであり、政府・権力にその政策的方向性の根本的変更を迫る闘いである。したがってそれは、単なる職場闘争であり得ないし、地域闘争でもあり得ない。
もちろん、雇用の保障をかちとろうとする労働運動の基礎は、一人の首切りも許さない闘いや労働条件の切り下げを許さない闘いなどの職場闘争である。また、新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡協議会を軸にした闘いや、大阪城公園を拠点とした大阪の野宿労働者の闘いのように、地域ごとに具体的要求をかかげて就労保障を行政に迫る闘いも重要である。さらに、介護保険法の実施を前にして、実施主体である各自治体に対してホームヘルパーの大幅増員とその待遇改善を求める闘いなどもきわめて重要である。
しかしそれは、小渕政権の「公務員定数の25%削減」政策や自治省の押しつける「地方行革・自治体リストラ」と対決する闘いであり、そのような国家政策と対決してその根本的変更を闘いとろうとする全国闘争として展開されない限り、たとえ何らかの成果をかちとることができたとしてもエピソードの域を超えることは困難である。雇用と労働条件を力で闘いとる労働運動の全国陣形を作り出すために全力をあげること、そのような気運を広げるために力を尽くすことが求められている。
大量失業は個人の責任ではなく、個別企業だけの責任で解決しうる問題でもなく、社会システムの問題であり、全社会的解決を要する問題であることを、具体的要求をかかげた闘いを通じて明らかにしなければならない。
f-2 後退と解体への流れに抗して
しかし現実には、労働運動の後退が続いている。日経連は、労働者が労働組合を通じて資本と相対する「集団的労使関係」を解体し、個々の労働者が資本と相対する「個別的労使関係」への移行を打ち出している。そのテコが、年功賃金の解体と能力主義・成果主義賃金への転換である。
言うまでもなくこのような転換は、労働組合運動そのものの全面的解体へと一直線につながっている。しかし電機連合など民間大単産を中心に、このような方向を自ら受け入れようとする傾向が強まっている。
政府・資本は闘いを放棄した連合を柱とする日本の労働運動を見下している。昨年の労基法改悪をめぐって、改悪要綱案を答申した中央労働基準審議会の花見忠会長は、労働者は国家的規制に依存せず、労働基準を自分の力で改善すべきだという「正論」を述べた。
花見は言う。「時間外労働を限定し、割増率を法定より高い水準に設定することは、労使交渉で十分できる。日本の場合、三六協定が安易に結ばれている。ゆとりある生活より、残業手当を稼ごうという考えがあるからだ。時短だけで労組が本格的なストを打ったという話も聞かない。自主的運動によらず国家的規制に依存するという労組の発想を、今回改めて強く感じた」
「過労死が起きると、日本では非難の矛先が行政と経営者に集中する。しかし、他の先進国では日本の労組は何をしているのかとクビを傾げる。労働者も現場で強制労働をさせられているわけではない。労組が労働条件を良くする努力をしないで、国にだけ何とかしろというのはちょっと違うのではないか」(週刊労働ニュース98年2月2日号)。
このような労働運動をあなどった発言を許している否定的現実を変え、労働者の団結した闘いで大量解雇や賃下げを許さず、雇用保障をかちとることをめざさなければならない。
f-3 抵抗から反撃への転換を
出口の見えない不況、現代資本主義の歴史的行き詰まりの中で、新自由主義は全世界で吹き荒れている。日本の自動車産業の過剰生産能力が350万台であることを指摘したが、全世界の自動車生産能力は約7000万台、そのうち2000万台分の能力が過剰になっている。リストラの嵐は、いっそう激しく吹きすさばざるを得ないし、多国籍資本と各国政府は、労働者が闘い取ってきた労働条件を切り崩し、首切りと賃下げ、不安定雇用化を押しつけようとしている。
しかしヨーロッパでは、通貨統合に向けた社会保障切り捨て政策に対決する95年12月のフランス公務員ゼネストを契機にして、労働者の闘いが抵抗から反撃へ向かう局面が始まっている。EU内でより労働条件の悪い地域へ生産移転しようとする国境を超えたリストラに対決し、国境を超えた数カ国の労働者が同時にストライキに立ち上がるユーロストが展開されている。失業手当の増額や臨時支給を求める闘いが国境を超えて呼応しつつ前進している。そしてそのような闘いをヨーロッパ規模で統一する反失業ヨーロッパマーチが闘いとられている。
このような闘いの成果の上に、フランスではドイツに続いて週35時間労働がかちとられ、現在、各企業と労働組合が労働協約を締結するための攻防に入っている。イタリアでも週35時間労働制の導入を約束させている。
これに対して日本では、週60時間以上、年間3000時間以上も働かされている労働者が600万人もおり、平均してドイツやフランスの労働時間の約1・5倍の長時間労働を強いられている。しかし、多国籍資本が激烈な国際競争に直面し、利潤率を回復・増大させることによって生き残ろうとしているという点では、日本も西ヨーロッパも変わりはない。違っている点は、ヨーロッパでは労働運動が80年代の後退を経て踏みとどまり、抵抗から反撃に向かい始めているのに対して、日本の労働運動がいまなお深刻な後退局面にあるということである。
国家・資本と対決する労働者の全国運動を再建しようとすることこそ、決定的に重要である。
f-4 全国闘争陣形の形成に全力を
98年春の「労基法改悪NO!全国キャラバン」は、そのような労働者の全国運動を復権させようとする画期的闘いだった。時短どころか無制限のサービス残業を合法化しようとする裁量労働制の全般化や、若年定年制の導入をねらった有期雇用契約期間の延長に反対して、派遣労働者や有期雇用労働者、パート労働者の権利のために闘ってきた運動の下からのイニシアチブで開始された闘いは、全労協、全労連、連合系労組も含んだ共闘をさまざまなレベルで実現し、労働者の全国闘争陣形を久々に作り出した。
その闘いは、労基法改悪を阻止するところまでは行かなかったが、改悪労基法の乱用に一定のブレーキをかけることを可能にするさまざな歯止めをつけさせるところまで、政府・資本を追い込んだ。そしてその闘いの上に、労働者派遣法改悪反対、職安法改悪反対の闘いが展開された。このような闘いをさらに発展させるために全力をあげることこそ、闘う労働者に求められているのである。
政府・資本の側は、労働条件の切り下げを認めないなら生産を国外に移転すると脅迫する。あるいは、より低い賃金コストの国に競争で負けてしまうと脅迫する。80年代は、日本の低賃金・長時間労働がアメリカやヨーロッパのリストラの起動力となり、ジャパナイゼーションと言われた。したがって、労働条件と雇用をめぐる闘いは最初からインターナショナルな闘いであることを要求される。いまも、日本の労働者の超長時間労働は欧米の労働者の闘いにブレーキをかける役割を果たしているのである。
それは同時に、アジア・第三世界の労働者の労働条件の向上のために闘うことであり、低賃金・無権利な状態に置かれている在日外国人労働者の権利のために闘うことである。展開しなければならないのは、多国籍資本の新自由主義政策と対決するインターナショナルな闘いなのである。
最後に、労働者の全国闘争を作りだそうとする上で、新ガイドラインのもとで強力に推し進められつつある戦争国家体制強化と対決する全国政治闘争の決定的重要性を強調しなければならない。
歴史的行き詰まりに陥った現代資本主義の新自由主義政策は、全世界で貧富の差をさらに拡大し、社会的不安定性を増幅する。そして、生産過程に入り込めない大量の過剰資本が生み出す「カジノ資本主義」化の進行は、アジア通貨・金融恐慌が示したように一夜にして多くの国々の経済を破綻させ、何百万、何千万の労働者を街頭に投げ出し、社会的不安定性をさらに激化させる。だからこそNATOの「新戦略概念」なのであり、新ガイドラインなのである。戦争が日常化する時代の流れに抗する労働者の反戦闘争は、反失業闘争と一体であり、労働条件の切り下げを許さない闘いと一体である。
労働者が、具体的闘争経験を通じて階級的団結の必要性と労働組合運動を大衆的に「再発見」し、政府・資本と対決する全国政治闘争の必要性を「再発見」するための長期にわたる闘いに全力を上げなければならない。
21世紀に向けて、全世界で新自由主義と対決する新たな階級闘争の時代を切り開くために全力を上げよう。
The KAKEHASHI
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