われわれの現状と課題

日本革命的共産主義者同盟(JRCL)第18回全国大会決議

(1)組織分裂以降10年間の闘いと現在

a 14回大会と同盟の分裂

 1989年8月のわが同盟14回大会は、1980年代の危機の中で進行した同盟の分裂を完成するものであった。今日、国際主義労働者全国協議会に結集するメンバーは、大会に参加せず、彼らの協議会を発足させることになった。それ以来、今年で10年が経過した。1989年は、民主化運動を戦車で圧殺した中国天安門事件の年であり、またベルリンの壁の崩壊から、ルーマニアのチャウシェスク独裁体制への打倒へと帰結した東欧労働者国家圏のなだれを打った崩壊によっても特徴づけられる。それは1991年のソ連邦の崩壊へと結びついた。
 この10年はまさしく歴史を画する激動の期間であり、社会主義運動への急速な信頼性の喪失と階級闘争の世界的規模の後退、女性差別問題に代表される組織建設の破綻的現実、女性メンバーの離脱とMELT、全国協議会グループの離脱による組織の力量の大幅な低下の中で、わが同盟は困難な闘いを強制された。女性差別問題に関する経過については、1996年の同盟17回大会で採択した「経過文書」で確認した通りである。
 1991年2月の第四インターナショナル第13回世界大会は、旧日本支部について「女性同志たちが男と共通の組織に参加できないと考え、男性と女性のメンバーが別々のグループへ分裂しているこの状況はこの上なく深刻である」と指摘し、「このことは男性メンバーの側が、組織活動において女性への抑圧と闘うわれわれの基本的立場を実践する能力を根本的に持っていないことを示している。われわれの基本的立場とこれら男性メンバーのグループの現実との間に重大な不一致があり、それゆえこれらのグループがいかなる意味でもインターナショナルを体現したり、インターナショナル内で公式の位置を持つと見なすことは不可能である」という判断を下した(「日本小委員会の報告と提案」)。
 1990年代におけるわが同盟の組織的結集力の後退、組織的力量の低下は、女性差別問題に示される同盟建設の欠陥と破綻がもたらした結果である。同時にそれは、資本のグローバリゼーション、新自由主義の攻勢の中での既存の労働者運動の衰退、大衆運動の結集力の後退、そして何よりもソ連・東欧労働者国家圏のスターリニスト官僚体制の崩壊に示される世界的な規模での階級闘争の力関係が急速に悪化したことに根拠を置いている。
 明らかに、ロシア革命以来の階級闘争の国際的構造とサイクルは終焉したのであり、社会主義と革命をめざす運動は、当面のところ再建の突破口を見いだしえていない。もちろんそのことは東欧スターリニスト官僚体制の崩壊と湾岸戦争を期に主張された「資本主義の勝利と社会主義の死」というキャンペーンを正当化するものでない。
 効率性と競争を万能の基準にした新自由主義型資本主義が、地球の生態系と環境の破壊、「南」の世界の恐るべき絶対的貧困と飢餓を促進する役割しか果たせず、世界的な紛争と暴力を拡大させている元凶であることは誰の眼にも明らかなことである。こうした中で帝国主義支配階級からも制約なきカジノ資本主義、「市場万能」論への懐疑の声が上がっている。1997年に起こったアジア金融・経済危機、世界的な規模での失業の拡大はこうした批判をさらに促進した。
 資本主義のイデオローグたちは、資本の「公正」な自由競争と、「環境」「人権」「多元的価値」「分権」「共生」などの、市民運動・社会運動が提出してきた諸原理・価値を調和させようとする。しかしそれがまったくの欺瞞と幻想にすぎないことはいっそう明白になっている。
 この中で、新自由主義の原理の普遍化に対する労働者人民の反撃は不可避的に拡大する。しかしそれは自動的に「社会主義革命運動」の復権を意味するわけではない。われわれは17回大会決議で次のように述べた。
 「エコロジー運動もフェミニズム運動も、第三世界の飢餓と貧困に対する闘いも、その多様でエネルギーに満ちた展開にもかかわらず、『資本主義に対するオルタナティブ』としての新しい社会主義のための努力とただちに結びつくことはない。市場万能型のネオリベラリズムに対する批判と抵抗が、『環境』や『共生』を価値の要素に取り込もうとする資本主義の国際戦略の中に組み入れられるというベクトルさえ働いている」。
 「社会主義革命運動の再生は、国際的にいっても相対的に長期にわたる主体の再編成と、試行錯誤をともなった運動経験の蓄積過程を必要とする。われわれは全世界の第四インターナショナルの同志とともに、革命運動の歴史的経験と理論をこの過程で検証しつつ、多元的で民主主義的な主体の再編成の時期をくぐりぬけなければならない」(「世界革命」紙96年4月15日号)。
 そしてわれわれは「問われていることは、現実の民主主義的な抵抗の運動と社会主義的なオルタナティブとの間に横たわる距離の自覚であり、その運動に内在しながら反資本主義的解決に向けて頑強に闘い抜こうとする姿勢」であるとした、のである。
 ここでわれわれは、「社会主義再生」への目的意識性を堅持しつつ、当面きわめて経験主義的なプロセスを歩みつづけなければならないことを確認し、その中で着実に、われわれの実践的経験を組織として共有し、客観的・主体的状況を検証し、理論的刷新の作業を着実に積み上げていこうとした。そのことは16、17回大会で確認したように、この困難な状況において、どう「生き延び」「耐え」ていくかという姿勢によっては、われわれが自らを維持することも、大衆運動との接点を保持していくことも困難である、ということを意味している。

b 同盟の経験主義的模索

 われわれは、1990年代いっぱいを、きわめて経験主義的に、情勢の性格を現実の運動の中で実感しつつくぐりぬけていった。
 湾岸戦争以後の反戦運動を中心にする大衆運動における共同、「平和・市民」として闘った95年参院選などいくつかの国政選挙や各種地方選挙への統一戦線的関与がその中心であり、労働運動や環境運動など、さらに個別の課題についてはそれぞれのメンバーの努力に委ねられてきたが、同盟としての最低限の統一性(共通感覚)の維持は「かけはし」(旧「世界革命」)の週刊発行体制の維持によって防衛されてきた。またFIメンバー資格の喪失にもかかわらず、われわれは限られた条件の中で世界大会や国際執行委員会への参加・報告や「かけはし」での論文翻訳などを通じて、インターナショナルとの関係を防衛してきた。
 全国同盟としては、低下した力量の中でなんとか自己を維持することに精一杯という以上のことをなしえなかったのが実際である。しかし全体としての左翼の力量の低下、「社会主義」「革命」「階級闘争」という概念の放棄に向かう圧力が強まる中で、現実の大衆運動に内在しながら、「社会主義と革命」の可能性を放棄することを拒否しようとするわれわれの基本的な立場は、きわめて重要なものになっている。
 われわれは大衆運動の現場に踏みとどまりながら、ささやかな抵抗と反撃の可能性をつかみとり、社会運動の新しい模索を共有化しようとしてきたし、「社会主義終焉」の趨勢に抗しつつ、事態の性格をとらえ社会主義再生のための挑戦を継続しようとする姿勢を堅持してきた。
 とりわけ、内ゲバ主義反対の原則を運動の場においてつらぬき、中核、革マルなどの内ゲバ主義者の介入、攪乱から「内ゲバ主義者との共闘は行わない」という大衆運動の原則を防衛してきたことはわれわれの歴史的主張と実践なくしてはありえなかっただろう。
 今日、内ゲバ主義者がその党派性を徹底的に隠したり、虚偽を弄して、「広範な共同」という言葉で市民運動や労働運動への介入や囲い込みを強め、ともすれば「内ゲバ主義排除」という原則が「セクト主義」に見られかねない状況がある中で、われわれが多くの無党派活動家とともにこの原則をつらぬき、大衆運動と共同行動の構造を守ることは、今後の運動と統一戦線の形成にとってまさに死活の問題なのである。
 「資本主義の勝利」が謳歌された風潮が急速に色あせている今日の局面において、慎重かつ柔軟なスタンスで労働者民衆運動の政治的再建のために闘ってきたわれわれの客観的位置は決して小さなものではない。週刊「かけはし」が活動家の間で果たしている役割は、その部数の如何を問わず、恐らくわれわれ自身が考えているよりも大きいのである。
 それはグローバル化の中で、国際的な諸問題への関心が高まるにつれて第四インターナショナルの今日の世界的闘いが持っている決定的な重要性とも関連して、ますますはっきりしてくるだろう。

c われわれの活動状況と 同盟員のあり方(略)

(2)当面する情勢の構造とわれわれの課題

a 資本のグローバリゼーションと日本資本主義の危機(略)
b 新自由主義と新しい国家主義

 現在の新自由主義的な経済・社会の再編成は、高度経済成長に支えられた「日本型労使関係」の安定性や、官僚主導による国家・自治体をつらぬく利益配分型国民統合のあり方を解体するものであり、労働者の権利の剥奪と雇用の不安定化を伴いながら資本の自由な利潤追求活動領域の拡大(教育・福祉分野などをふくめた)に向かう方向が打ち出されている。
 同時に新ガイドライン関連法や「日の丸・君が代」の「国旗・国歌化」や盗聴法など一連の治安管理法は、アジア太平洋地域を主要な対象にしながらアメリカ帝国主義の戦略に自らを積極的に組み込む形で、世界の危機管理秩序に軍事的・政治的に参画しようとする国家体制の構築を推し進めようとするものである。それは「戦後憲法」体制の構造を形式の上でも最終的に組み替えようとする、新たな権威主義的政治体制に向かう力学を示している。
 「政官財の構造的癒着」を標的にし、「官」の論理に「民」の論理を対置する新自由主義的「改革」が、他方において軍事的・治安的な危機管理のイデオロギーを軸にした国家の権威主義的強化と一体で進んでいくことがここからも見て取れる。だがそれは、単線的に進行する過程ではない。
 小渕政権の下での自民・自由・公明三党連立体制の形成は、当面、米軍事戦略との一体化による「戦争ができる国家体制」のための法的整備を軸に進行しており、国家主義を前面化した新保守主義的性格が濃厚である。しかし同時に、新自由主義の理念による「改革」をたてまえとしながら、それによって切り捨てられる自民党や公明党の主要な支持者である都市と農村の中間層、下層中間層の利害への一定の配慮も行わざるをえない。
 このことは、旧来の55年体制型保守政治との全面的・能動的対決という形を通して、新自由主義的「改革」の論理が作動するわけではないことを意味している。むしろ旧来の利益配分型保守政治の枠組みと正面からの対決を避けつつ、それと妥協しながら、「外圧」や既成事実の論理によってなしくずし的にそれを改変し、新自由主義を貫徹しようとするという構造になっている。それは中央・地方を合わせて六百兆円を超える公的債務に端的に示される財政赤字をいっそう深刻化させつつ、日本社会の危機をさらに蓄積し、大資本、切り捨てられる中間層、労働者民衆のフラストレーションを拡大させることになる。そのことがまた強力なリーダーシップを待望する気運を強めていくことになるのである。
 「市民」に対する「国民」の論理という形での新しい国家主義の強調や、「青島現象」から「石原現象」へ、という形をとった権威主義的気運の増大は、大資本、切り捨てられる中間層や労働者双方からの不満を錯綜した形で反映している。

c 新自由主義と市民運動、そして「リベラルの罠」

 だが、決して単線的な過程を歩むわけではないにしても、資本主義の危機の下での新たな権威主義的国家・社会体制の形成は、政・官・財の癒着にもとづく旧来の企業主義的・利益配分的な統合体制のなしくずし的な崩壊現象をもたらしている。それは「自立した市民」「責任ある個人」というイデオロギーを軸に、「弱者保護」「社会的・経済的平等」の思想への露骨な攻撃を伴ったものである。政官財癒着による官僚的規制への批判は、社会の全領域にわたる競争的差別主義の拡大をふくんでいる。この新自由主義的な規制緩和論は、同時に「ポスト冷戦時代の国際的貢献」の旗印の下に、軍事と治安管理を軸にして「国家」を再定立しようとする動きとセットのものである。
 国家・企業による「温情主義」的統合の解体は、一方で市民による社会的活動の空間を拡大している。NPOは、国家・企業が占めていたさまざまな経済的機能の一部を市民の自主的な活動によって代替するものとされている。NPOは、公共セクター、企業セクターに加えて「市民セクター」が経済活動においても重要な役割を独自に果たす、新しい市民社会のあり方を示すものとして大きく取り上げられるようになっている。われわれは、資本主義社会へのオルタナティブとしての新しい社会の編成様式を考えようとする時、こうした自主的な公共的市民活動の諸要素に注目する必要があることは当然である。
 しかしそれは今日、国家が福祉などの社会サービスを放棄し、貧困層の犠牲の上に財政赤字の縮小をはかろうとする新自由主義的な民営化戦略を補完するという側面があることを見逃してはならない。政府の側から言えば、「民力の導入」や「地方分権」の名において、外交・軍事・危機管理などの機能を国家に一元的に集中し、さまざまな社会的サービスを民間企業、自治体などに委譲・移管する政策と軌を一にしたものとして、NPO型活動を利用しようとしているのである。
 市民運動の側からなされる「小さな政府」というスローガンは、多くの場合競争主義的市場原理への社会的規制を行う運動的力量が弱体であること、あるいはむしろそれが資本と政府の新自由主義戦略に加担するものでもあることに、あまりにも無自覚であることが多い。したがって、この点でも、地域における市民的公共活動は、今日の政府の一連の「規制緩和」「民営化」政策、さらに国家主義的軍事・外交・危機管理政策との意識的な対決なくしては、「リベラルの罠」に取り込まれていくものになっていくだろう。

d 「よりまし資本主義」 に向かうベクトル

 今日の大衆運動の拡散化は、それ自体として左派の影響力をいっそう低下させ、こうした運動が「リベラルの罠」におちいっていく構造をいっそう容易にさせている。われわれは現実の大衆運動との接点を維持しようとすればするほど、われわれ自身がこうした「市民的資本主義」「よりまし資本主義」へとおもむく圧力に抵抗しがたくなる。労働者の集団的抵抗の再生が、当面きわめて困難であるところでは、この圧力はわれわれをさらに切り裂くことになるだろう。そこからのあらかじめの「防備策」は存在しない。この点でわれわれは、どのような反資本主義的目的意識性を打ち鍛えていくかが問われるのである。
 グローバリゼーションと新自由主義的規制緩和の論理に対抗する論理として、そして「日本型福祉国家」や「企業社会」や「浪費型成長至上主義経済」そして危機管理国家への対抗軸として押し出されているのは、地域に基礎を置く市民の自立的活動の成熟の強調である。つまりそれは典型的な「よりまし資本主義」の主張である。もちろんそうしたエコロジーや男女共生社会にかかわる市民運動の論理は、官僚体制や企業社会、市場万能論に代わる社会の編成原理として運動自身の模索の中から生み出されたものであって、社会主義をめざすわれわれにとっても吸収していかなければならない内容を持っている。しかしこの論議では、社会主義的解決があらかじめ排除されている。それはすでに過去の失敗とされているのである。
 われわれは今日の社会運動、市民運動の基本的性格が、普段に「よりまし資本主義」的な対案に集約されていく力学を含んでいることに対して、自覚的に批判的でなければならない。住民投票に代表される住民の直接参加型民主主義の経験も、住民無視の開発や環境汚染に対する自治の経験を積み重ねていく上で、きわめて貴重なものであることは言うまでもないが、国家に軍事・外交、「危機管理」の権限を集中し、自治体の関与を認めない国家の権威主義的強化への批判を回避する「地方分権」の称揚は、一面的なものである。
 もちろん現実の社会運動、市民運動に内在するわれわれにとっても、この「よりまし資本主義」的政策対置に向かわざるをえない圧力が無縁ではありえず、つねに「引き裂かれ」の矛盾に直面することになる。問題は、この矛盾を意識し、この矛盾との格闘を通じて「反資本主義的オルタナティブ」を全体的に構想しようとする努力を、あくまでも持続しようとすることである。われわれがそうした運動への関わりを強めれば強めるほど、「制度圏」での政策・方針を具体的に持つことを強制される。それは不可避である。そのとき必要なのは、「制度圏」の闘いが、労働者民衆の集団的行動や自主的組織化の余地を拡大するものでなければならないことをつねに忘れないことである。

e われわれを引き裂く矛盾と目的意識性

 現在、新しい左翼の政治をめざそうとする政治グループにとって、自らの戦略的方向性を探る努力は、「社会主義政治連合」(自治・共生・連帯の社会主義をめざす政治連合)の内外を問わず、相互に錯綜しあいながら大別して3つの方向に分岐しつつある、と言える。
 第一は、新しい政治の方向を「国家」に対する「地域」の対置、地域の中から新しい「市民的公共性」の獲得をめざし、自立した「地方政府」の連合したネットワークを通じて「国家」を浸食していこうとする方向である。九九年統一地方選で登場した「虹と緑の五〇〇人リスト」の中にもそうした「地域」を主体とした「自治と分権」の方向性が見て取れる。
 第二は、共産党や社会民主主義に替わる「自立した市民的政治勢力」の独自の全国的形成を、日本における「緑の党」的政治勢力に集約しようという考え方である。
 この第一、第二は、ともに選挙への挑戦を通じた新しい市民的政治表現の結晶化を重視しようとする考え方につながる。
 第三は、一、二の運動的挑戦とも重なり合いながら、政治的大衆運動、労働運動の再建を軸にして、反資本主義の社会主義左翼形成の政治的基盤を獲得していこうとする方向である。
 第三の立場は、今日の大衆運動・労働運動の衰退に規定されて、もっとも抽象的たらざるをえないという限界を持っていると言えるが、われわれが16、17回大会を通じて主張してきた立場は、基本的にこの「政治的大衆運動、労働運動の再建を軸に」というものであった。それはある意味では、左翼運動の伝統的原則に固執する立場だとも言える。しかしわれわれは、その現実的困難性を自覚しながらも、労働者人民の集団的政治行動の再生を通じた社会主義再生への模索という原則を清算すべきではない。
 しかしわれわれのこの間の困難は、その大衆運動へのこだわりが「大衆運動主義」のレベルを突破できないということであった。大衆運動自身の低迷と課題別の分散化は、われわれの「大衆運動主義的統一」を不可能にしているし、われわれが各地域、各課題ごとに大衆運動や選挙に深く取り組めば取り組むほど、それぞれの実態に応じたスタンスの差異は明確にならざるをえない。このスタンスの差異を、同盟として討論する共通の政治的基盤を獲得していくための目的意識が問われているのである。

f 99年統一自治体選と「制度圏」内の闘いの困難ならびに限界

 99年統一自治体選挙において「虹と緑」は現職・新人をふくめて226人が立候補し、133人が当選した。非改選現職をふくめると184人の議員(うち二人は首長)を持つことになった。それは地域の住民主権、「市民参加」、フェミニズム、エコロジーなど、従来の古い地域ボス政治に対置する市民的民主主義の新しい要素をふくんでいる。われわれは、民衆運動の今日的な形態として、その中から新しい積極的な芽が出ていることを率直に評価しなければならない。それは受動的な保守主義に対する民衆自身の主体的な社会・政治変革の一表現である。
 しかしそれは新ガイドラインに代表されるポスト冷戦期におけるアメリカ主導の「軍事的安全保障」や新自由主義の論理に対決するベクトルを持ちえてはいないし、その「平和」の論理もきわめて抽象的な水準にとどまっている。「国家」に対する「地域」の対置は、国家に対する政治的闘争の衰退、新自由主義とセットと国家的な危機管理体制の構築に対する政治的な対決の水路が崩壊していることを示している。
 また、地域に基礎を置くとともに、全国選挙・全国政党への挑戦を射程に入れた「市民新党にいがた」などの試みが中途挫折を余儀なくされていることは、「虹と緑」に参加する勢力の政治的発展にとって、きわめて大きな困難をつきつけている。
 欧州社民党と緑の政権が、いずれもNATOのユーゴ爆撃に対して「人権」と「平和」を口実に、それを現状維持的に追認していることは、「緑」的な「新しい政治」の限界でもある。「緑」のラディカルなエコロジーの主張と平和運動の経験にもかかわらず、それがNATOのユーゴ爆撃に対して大勢として屈伏してしまったことは、きわめて教訓的である。
 そのことは、左翼の新しい政治潮流の形成を「日本における緑の党」の形成として集約的に性格づけていく立場を、われわれが採用しないということを意味する。そのことはもちろん、「緑」的政治の中の変革的要素とわれわれがどのように結びつくかということを否定するものではないし、またいわゆる「制度圏」の政治を射程に入れようということを排除するものではない。
 しかしわれわれは、社会運動と選挙・議会活動などの「制度圏」政治を峻別し、後者が独自の論理をもって社会運動とは相対的に別個に作りだされねばならないとする主張の中に、いったん「制度圏」に入った途端に現状追認の論理に流される大きな要因の一つがあることを指摘する必要がある。議会外的な社会運動の衰退、労働者人民の集団的・大衆的な動員の崩壊は、こうした「制度圏」政治=「体制内改革」の論理に向かう圧力を不断に作りだしているのである。
 他方、社会運動をベースに「権力をめざさない政治」を強調する傾向も、どのように「権力」を行使するのかという構想をあらかじめ排除することによって、逆に自らがその問題に直面した場合、「現実政治」の流れに追随することを余儀なくされることになる。
 われわれは、労働者人民の自主的な動員を強化することと、選挙・議会における独自の活動を緊密に結合することによってしか、新しい民衆的政治潮流を展望しえないことを改めて確認しなければならない。

g 新ガイドライン法反対 闘争の総括

 新ガイドライン・戦争法案反対運動の総括について(詳しくは「かけはし」99年6月21日号平井論文参照)。
 戦争法案反対運動は、1992年の反PKO闘争との対比でも、労働者民衆の集団的意思表示としての政治的大衆運動がギリギリのところにまで後退している現実をつきつけた。地方的な相違はあるものの首都圏において労働組合としての反ガイドライン闘争の動員は決定的に衰退してしまった。旧社会党・総評ブロックの消滅は、政府・国会に対する法案阻止闘争のイニシアティブの不在を意味している。
 もちろんかつての社会党にかわって、日本共産党が戦争法案反対運動において重要な役割を果たしたことを見ておくべきである。共産党の役割は法案成立直前の5・21明治公園5万人集会に端的に表現された。共産党は一方では「安保棚上げ=維持」の「暫定連合政権」という政策上の右傾化をさらに推し進めつつ、極小政党化した社民党だけではなく非共産党系の左派勢力や市民運動に対してもより柔軟な共同方式を採用し、それらを取り込もうとする方針に転換した。
 しかしそのことは、共産党を軸にした新しい大衆運動の政治構造が作られたということを意味するわけではない。われわれは市民運動への窓口を拡大しようとする共産党の一定の戦術的手直しを歓迎し、その機会を活用しなければならないが、労働運動や市民運動全体の力量の低下の中でそれがなされている限界についても見据えなければならない。
 すなわち大衆運動の側から共産党のセクト主義を統制するという関係は成立しておらず、「暫定政権」問題や「国旗・国歌」問題に示される共産党のもう一つの「国民政党化」への批判の声もきわめて小さいままである。そしてともすれば、共産党の力へのもたれかかりに容易に転化する可能性もふくまれている。
 われわれは、徹底的に党派性を隠した内ゲバ主義者による市民運動への囲い込み工作から、「内ゲバ主義反対」の原則を掲げた大衆運動の構造を防衛しなければならず、なおかつ対国会闘争のイニシアティブ装置が崩壊した中で、最低限の国会闘争の枠組みを維持する役割も果たさなければならなかった。もちろん、戦争法にもとづく「自治体・民間協力」を拒否する地域レベルでの運動とそのネットワークについては、一定の蓄積が進んでおり、それは今後に向けた成果である。
 しかし問題は、政治運動・社会運動における労働者市民の集団的行動の復権、自主的動員の水路をどう作りなおしていくかということである。それとともに「一国平和主義」「絶対平和主義」を超えた反戦運動の展望、「国家・社会の軍事化」に対するオルタナティブな方向性を、「社会主義革命運動の再生」と結びつけて、どう提起していくかという戦略的な討論のイニシアティブをわれわれ自身が発揮していかなければならない。とりわけNATOによるユーゴ空爆への批判と結びつけて「人間の安全保障」を根拠にした「人道的介入」の主張の論理を批判することが、重要なテーマになっていくだろう。

h 労働運動と政治勢力(略)
i 日本共産党との大衆運動上での関係

 共同行動、統一戦線にかかわる問題として、左翼グループ、市民運動にとってはあらためて共産党との関係が実践的なもののとして不断に問われることになっている。議会政治においてはほとんど唯一の批判勢力となっている日本共産党は、ガイドライン反対闘争の項で前述したようにこの間大衆運動におけるスタンスを柔軟化させている。保守勢力との共同を掲げて、「資本主義の枠内での改革」路線をより具体化し、安保・天皇制・「国旗・国歌」を当面する「暫定政権」においては容認する対応を打ち出した共産党は、旧社会党の支持基盤をすべて獲得するという立場から、彼らが共同行動の対象としては排除してきた新左翼系をふくむ運動勢力に対しても「非暴力」を条件に抱え込もうという態度を取るようになってきた。
 こうした対応は、これら非共産党系勢力の周辺化によって可能となっているのであるが、言うまでもなくそれはソ連・東欧スターリニスト体制の崩壊がもたらすイデオロギー的支柱の動揺・危機の現れでもある。これまでになかったこうした状況の中で、共産党との関係において自らの主体的立場をより鮮明なものにしていくことがすべての左翼に問われることになる。
 一部の左翼、市民運動は伝統的な「反共産党主義」の立場で「旧左翼の時代は終わった」と語り、共産党から身を遠ざけてむしろ全国政治のレベルでは民主党に接近しようとする動向になっているが、そのことは新自由主義の政治への同化を限りなくもたらすことになるのである。われわれは共産党への路線的・イデオロギー的批判をいっそう強化するとともに、具体的な政治運動の場においては共産党との共同の機会を拒否することなく、むしろそれをも通じてリベラル民主主義から独立した労働者・市民運動の勢力の主体的強化につとめなければならない。
 日本共産党の場合、路線的には新自由主義によって切り捨てられる中間層の利害を防衛する「新しい福祉国家」の方向を見据えているようである。その意味で彼らは社会民主主義路線にいっそう純化しつつあるが、ユーロコミュニスト諸党のようにその組織路線までふくめて複数主義化していく可能性は、現在のところ存在していない。しかし彼らが「政権政党」化をめざそうとするのであれば、スターリニスト型組織論との矛盾は早晩露呈せざるをえないだろう。われわれはその点について注視する必要がある。

j 社会主義革命理論の再生に向けた自覚的な闘い

 われわれは、社会主義や革命が現実の選択肢としては大衆運動の中から意識的に放棄されていく状況の中で、現実の運動と社会主義的オルタナティブの間の距離の大きさを自覚しながら、その「かけはし」の構築をめざし、その運動に内在しつつ社会主義革命運動の再生に向けて闘おうとする姿勢を堅持することを主張してきた。
 「社会主義」や「革命」がレーニン、トロツキーの生きた時代のものとは異なった形で構想されなければならないのは当然であるが、それがなんらかの具体的な形を取るためには、これからも相対的に長期にわたる運動的経験と理論的模索が必要になってくる。
 われわれがいま共通に直面しているのは、現実の大衆運動に内在すればするほど、運動の理論的・実践的方針と、われわれの旧来のマルクス主義理論の諸概念の枠組みとが大きく乖離せざるをえないという問題である。それは、実際の運動と、われわれの理論の全体的構成とが切り離され、現実にはこの理論的枠組みが「タテマエ」になってしまうという問題でもある。これがきわめて歪んだあり方だということはもちろんである。
 この「理論と実践の引き裂かれ」は、多くの場合「アイデンティティー・クライシス」をもたらし、「理論」の放棄、「社会主義」や「革命」の放棄に行き着かざるをえない圧力として作用する。
 20世紀の革命運動におけるレーニン・トロツキー的伝統を今日的に継承しようとしてきたわれわれは、自覚的に国際的な「社会主義」と「革命」の理論的再定義のための討論を開始していかなければならない。その際、大胆さとともに拙速さを排した慎重な姿勢が必要なことは言うまでもない。また第四インターナショナルの同志たちの間での討論の現段階を前提にし、現実の運動との緊張関係をもってなされなければならないことは留意すべきである。
 冒頭に述べたように、われわれはこの間、大衆運動の多くの場面できわめて経験主義的なかたちではあれ、多くの貴重な経験を積んできたことは確かである。しかし、当面する労働運動、大衆運動の中でも、とりわけ内ゲバ主義者の運動路線とのせめぎあいがいっそう重大な局面に入っている今日、われわれの全国的集中性の再確立は、共同行動の構造を防衛する上でも不可欠なのである。
 ……(略)……
 また、この間アジアに向けた国際活動は、アジア連帯講座の香港、台湾に向けた活動として切り開かれてきた。アジア規模のインターナショナルな活動の必要性が、いっそう重要になっていることは言うまでもない。とりわけ、フィリピンにおける第四インターと結びついた新しい革命組織の結成などが進んでおり、東アジア・太平洋地域の左翼潮流の再結晶化の中で、われわれの活動を計画的に進めていかなければならない。
 その際、同時に国際NGO、労働NGOとの共同も意識的に追求していく必要がある。

k 左翼の共同と反資本主義左翼勢力

 今日、世界的にスターリニズムの崩壊を通じて、従来のイデオロギー的対立を超えた左翼グループの新たな再編成が進んでいる。第四インターナショナルのの同志たちは、この機会を攻勢的にとらえて、組織的統一、連合的左翼ブロックなど広範な反資本主義的左翼の再編成の主体的一翼を担っている。
 われわれが将来における日本の左翼グループの再編成を構想する時、こうした反資本主義左翼の組織的結集の展望を射程に入れる必要がある。しかし、それは労働組合運動や社会運動の抵抗勢力としての再建と相関関係にある。当面、われわれはそうした反資本主義政治勢力形成のための左翼の政治的・組織的再結集のイニシアティブを発揮する状況にはない。今日の日本の状況においては、労働運動や社会運動の中での共同と討論関係の蓄積を通じて、信頼関係を作りだしていくためのきわめて初歩的な段階にしかないことを確認し、われわれは反資本主義的オルタナティブを担う政治勢力を形成する条件を作りだしていくために闘わなければならない。

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