釣魚諸島(尖閣諸島)は中国領である

日本帝国主義の侵略と占領は国際法的に無効

日本政府が「借地権」を設定

 一月初めマスコミは一斉に、中国や台湾との間で領有権を争う釣魚諸島(日本名・尖閣諸島)五島のうち釣魚島など三島を、日本政府が昨年四月から年間二千二百五十六万円で「地主」から借り上げていることがわかった、と報じた。その目的は、政府の「借地権」を設定して管理を強化し、中国側の上陸などを防ぐためであるという。
 これに対して中国外務省は一月三日、在中日本大使館に対して「中国の領土主権を損なう行為である」として正式に抗議した。中国政府は日本政府に対して「これらの島に対していかなる一方的な行動をとってもすべて無効である」と主張している。また台湾外交部も一月二日、「中華民国(台湾)は釣魚諸島の主権を有する。外国の政府や組織がどのように主張しようとも、この事実を変えることはできない」という声明を発表した。
 香港の民間団体「保釣行動委員会」は一月四日、同諸島への上陸に向けて街頭での支援カンパ活動を開始した。台湾の民間団体とも連携しながら、今年五月に上陸行動を実行するという。九六年七月には日本の極右グループが、核武装発言や女性差別発言で防衛政務次官からの辞職に追い込まれた極右政治家西村慎吾(現・自由党国会議員)や石原慎太郎らと連携して上陸し、灯台を建設したことから、香港や台湾で抗議行動が広がり、上陸しようとした香港の活動家一人が死亡するなど、大きな国際的政治対立に発展した。
 日本政府もマスコミも「尖閣諸島は日本固有の領土」ということが、あたかも自明の理であるかのように主張している。「北方領土」や「竹島」と同様、自民党から共産党まで、帝国主義的領土要求における「挙国一致」が、この問題についても成立している。
 しかし、釣魚諸島は歴史的に疑いなく中国領であった。天皇制日本帝国主義は一八九五年一月、日清戦争に勝利したどさくさにまぎれ、どのような国際条約にももとづかずに、密かに、いつ日本の領土に編入したことを明示することさえなく、これらの諸島を領有するという非公開の閣議決定だけで、一方的かつ不法に中国から略奪したものである。それは国際法的にも完全に無効な、帝国主義的強盗行為であった。

釣魚諸島は歴史的に中国領

 日本側の主張の根幹は釣魚諸島が、一八九五年に日本が「領有」を宣言するに至るまで、いずれの国にも属さない「国際法上の無主地」であった、ということにつきる(一九七〇年八月琉球政府立法院の「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」)。
 しかしこのような主張は文献学的に全く成り立たない。釣魚諸島は明の時代から中国領として、釣魚台あるいは釣魚嶼、黄尾嶼(日本名・久場島)、赤尾嶼(日本名・久米赤島、大正島)などの名で知られており、当時中国の沿岸を荒らし回っていた倭寇に対する海上の防衛区域に含まれ、沿海防衛のための地図にも記載されていた。
 日本政府やマスコミが主張する国際法上の「無主地先占の法理」からすれば、釣魚諸島を最初に発見し、命名した中国に領有権が生ずる。しかも明政府はこれらの諸島を海上防衛の区域に定めていた。たとえ無人島であったとしても、今日の言葉で言えば「実行支配」が成立していたのである。
 これに対して「尖閣諸島」なる名前が日本で付けられたのは、一八九五年にこれらの諸島を略奪してから五年後の一九〇〇年になってからである。当時の日本海軍の海図は、模範とした英国海軍のものの丸写しであったが、英国海軍の海図では、釣魚島の東側にある岩礁群を「PINNACLE�\ISLANDS」(尖塔あるいはとがった岩峰の群島)と名づけていた。「尖閣諸島」という名は、釣魚諸島の一部の小さな岩礁に付けられていたこの「ピナクル�\アイランズ」を直訳して、無理やり釣魚諸島全体の名にしてしまったものである。
 中国には釣魚諸島に関する多数の歴史的文献があるが、明治維新以前の日本には釣魚諸島に関する日本の文献は、江戸幕府に対して国防の重要性を訴えた『海国兵談』で有名な林子平の『三国通覧図説』ただ一つしかない。しかもそれは先の琉球政府の決議も触れているように、中国の冊封副使・徐葆光の『中山傳信録』の図に依拠したものであり、日本の国防の重要性を訴える観点から書かれているにもかかわらず、釣魚諸島をはっきりと中国領に区分しているのである。また、これらの諸島に関する琉球の文献も、いずれも中国の文献に依拠したものであり、島の名前を中国名で記し、中国領としている。
 十七世紀当時の琉球王朝では親日派と親中派との対立があった。親日派の代表格であった執政官・向象賢が親日派の歴史を正当化するために一六五〇年に書いた『琉球国中山世鑑』でも、中国の冊封使・陳侃の記述をそのまま採用し、久米島を琉球領の境としている。当時の琉球や日本の知識人にとって、釣魚諸島が「無主地」ではなく、中国領であることは動かしがたい事実であった。

アジア侵略と釣魚諸島略奪

 一八六八年の明治維新で権力を握った天皇制政府は、直ちに琉球、朝鮮、台湾へ侵略の歩を進めた。天皇制日本政府は、早くも一八七四年に台湾出兵を行った。侵略の口実は、台湾に一八七一年に台湾に漂着した琉球人が殺された「牡丹社事件」であった。「琉球人は日本人民であるから日本政府が報復する」というわけである。ところが琉球王朝は、清国と日本の双方に朝貢していた。そのため天皇制政府は反対を押し切り、琉球王朝を天皇支配下の「琉球藩王」に封じて外交権を奪い取ってしまった。
 天皇制政府はさらに、一八七五年には琉球が清国に朝貢することを禁止し、七九年には軍隊を持たない国であった琉球に軍隊を送って抵抗を押しつぶし、藩を廃止して政府直轄の沖縄県としてしまった。この「琉球処分」は、琉球と同様に清国に朝貢していた朝鮮を、清の支配から切り離して日本が植民地支配しようとする侵略の布石でもあった。清国政府は「琉球処分」に抗議したが、この対立は日清戦争によって軍事的に「解決」されるまで続いた。
 台湾侵略の足がかりとして釣魚諸島の略奪をねらっていた天皇制日本政府は一八八五年、海産物業者であった古賀辰四郎による「開拓願い」を受ける形で、沖縄県庁に対してこれらの諸島に対する調査を「内命」した。命令を受けた沖縄県は、同年九月二十二日付けの沖縄県令西村捨三の上申書で、これらの島々は中国領であるようだから、実地調査して直ちに国標を立てるわけには行かないだろうという主旨を、政府に伝えている。
 このような沖縄からの上申を受けたにもかかわらず、内務卿・山県有朋は同年十月九日、「たとえ『中山傳信録』に記された島々であったとしても」、すなわち中国領であっても、「宮古や八重山に近い無人島なのだから日本のものにしてしまっても構わないだろう」と主張して、外務卿・井上馨に打診した。
 これに対して井上は十月二十一日付けの親書で、「清国では、日本が台湾に近い島々を占領しようとしているということを新聞でも書き立てるなどの状態になって、日本への警戒が高まっているから、いま国標を建てるべきではなく、調査した事実も新聞などに載って知られてしまわないよう注意すべきだ」と返答している。その上で山県と井上は連名で沖縄県に対して、直ちに国標を建設する必要はないと指令している。戦争の準備が整わないうちに、清国との国際紛争が激化してしまうのを恐れたのである。
 日清戦争が開始される一八九四年にも、先の古賀辰四郎が釣魚島開拓願いを沖縄県に出している(月日不明だが開戦前か、開戦後でもまだ日本の勝利がはっきりしていなかった時期であろう)。
 この時も県は「同島の所属が帝国のものなるや不明確なりし為に」それを却下した。古賀は内務相と農商務相に宛てた嘆願書を出し、上京して訴えたが許可されなかった。すでにこの時、天皇制日本帝国主義は釣魚諸島を戦争によって奪い取ることを決めており、事前の暴発の危険性を回避したのであろう。
 日清戦争で日本の勝利が確実になった一八九四年末になって、内務省は外務省に秘密文書(十二月二十七日付け)で、釣魚諸島を沖縄県所轄として国標を建てることについて閣議決定することを申し入れ、翌一八九五年一月十四日に閣議決定が行われたのである。
 沖縄の施政権返還にともなって釣魚諸島の帰属が問題となった一九七二年三月八日に外務省が出した「尖閣列島」の領有権に関する「見解」は言う。「尖閣列島は、明治十八年(一八八五年)以降、政府が再三にわたって現地調査を行い、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、同二十八年一月十四日、現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行い……」。政府による調査の回数(実は一回だけ)も含め、すべてがデタラメである。

国際法的に無効な違法占領

 台湾と澎湖諸島は下関条約第二条によって日本が略奪した。ところが釣魚諸島は、どんな条約にもよらず、戦争に勝利したドサクサまぎれに盗み取ったものである。日清戦争後の講話交渉で清国側がこの問題で異議を申し立てなかったことを、日本の領有の正当性の根拠とする主張がある。しかしこのような主張は成立しない。
 一八九五年の閣議決定は公表されなかったし、釣魚諸島を日本領に編入するという公示が出されたわけでもなかったし、標杭が建てられたわけでもなかったし、講和条約の議題として日本が持ち出したわけでもなかった。日本から台湾と遼東半島の割譲や巨額の賠償金の支払いを要求されていた清国が、自分の知らないところで秘密裏に行われた釣魚諸島強奪に抗議することなど、できるはずがなかったのである。
 天皇制日本帝国主義は、降伏後の領土問題について「カイロ宣言の条項は実行される」と明記したポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した。カイロ宣言は、満州、台湾、澎湖諸島など、日本が中国から奪ったすべての地域を返還すると規定している。
 たとえ日本の敗戦後、中国領である釣魚諸島を琉球列島とともにアメリカ帝国主義が軍事占領し、五一年のサンフランシスコ講和条約締結後も軍事占領を継続し、四九年に勝利した中国革命に敵対するための射爆場として使用し続けたとしても、釣魚諸島が返還されるべき中国領である事実にはいささかも変わりはない。また、サンフランシスコ講和会議には中国代表は招請されてさえおらず、したがって講和条約は中国を拘束せず、中国と日本の領土問題はその後も積み残されたのである。
 秘密裏に盗み取ったため、釣魚諸島がいつから沖縄県の管轄になったのかも不明のままである。日本側は一八九五年の閣議決定を経て、翌年四月一日の勅令第十三号で日本領となったと主張している。
 しかしこれもデタラメである。沖縄県の編成について記されたその勅令には、久米島や慶良間諸島や鳥島や大東島や宮古諸島や八重山諸島については書かれていても、「魚釣島(釣魚島の日本名)」も「久場島(黄尾嶼の日本名)」も出てこないし、もちろん「尖閣列島」などという名も出てこない。そもそも「尖閣列島」なる英語から直訳された名が付けられたのが一九〇〇年なのだから、書かれているはずもないのだ。
 釣魚諸島が中国の領土であるということは、歴史的にも国際法的にも動かしがたい事実なのである。

帝国主義的領土要求との闘いを

 帝国主義支配が政治的にも経済的にも危機に陥り、社会に対立と分裂と闘争の構造が広がったとき、その分裂を糊塗し闘いの方向を支配体制からそらせるとともに国家主義的国民統合を強化するために、領土問題が常に持ち出されてきた。
 領土問題は、帝国主義国内で社会主義をめざして闘う左翼勢力にとって決定的な試金石の一つである。侵略した側の労働者人民が帝国主義の排外主義的領土要求に屈服しているようでは、侵略された側の労働者人民との国際的な連帯など作れるはずがないからである。
 沖縄の施政権返還と並行してこの釣魚諸島問題が焦点化した時、釣魚諸島が中国領であることを主張し、日本帝国主義の領土要求に反対して大衆集会やデモに取り組んだ左翼勢力は、われわれと中核派だけであった。当時、中国共産党と激しく対立していた日本共産党は、ソ連(ロシア)との「北方領土」問題や韓国との「竹島」問題と同様に、自民党政府以上に激しく「尖閣列島は日本固有の領土である」と主張した。
 今回の事態に対して日本共産党の「しんぶん赤旗」(1月4日)は、日本政府が「尖閣諸島」五島のうち三島を借り上げて管理を強化したということと、中国と台湾がこれに抗議しているという事実を伝えるだけの「客観報道」に徹している。もちろん、これまでの反動的領土要求を反省して撤回したわけではない。中国共産党との関係を「正常化」して友好関係を結んでいるために、これまでの主張を後景に退かせているだけである。今後もし両党の対立が再び深まるようなことがあれば、「尖閣列島は日本の領土」という反動的主張も再び表面化するだろう。
 釣魚諸島の中国への帰属をあいまいにしたまま、「非軍事化」や「共同利用」を日本の側から持ち出すのも、もちろん誤りである。それは他国から盗み取ったものを、盗んだ側が「昔のことは水に流して仲良く使いましょう」という「強盗の論理」にほかならない。共同利用したいなら、まず返還し、その後に申し入れるべきであろう。
 小泉政権が「戦争のできる国家体制」の確立に向けて、有事立法と憲法改悪に突き進んでいるなかで、国家主義的国民統合の論理にくさびを打ち込むためにも、帝国主義の侵略と領土的野心に反対しなければならない。釣魚諸島は中国のものである。
 (1月20日 高島義一)
(歴史的文献と資料は、すべて第三書館発行・井上清著『尖閣列島�\釣魚諸島の史的解明』によった。このすぐれた著作をぜひ学習してほしい)

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