新しい情勢局面のもとで何が問われているのか?(中)
かけはし2013年3月11日号
脱原発運動と衆院選が示したもの (中)
自民党政権下の脱原発
運動に問われる課題
そこで問われるのは、少なくとも以下のことがらであろう。
(1)昨年九月一四日、民主党政権の中で二〇三〇年代の原発稼働ゼロを盛り込んだ「革新的エネルギー・環境戦略」を確認したが、九月一九日にはそれを閣議決定することなく「参考文書」として扱うとした。「原発ゼロ」を決定させないように強力な圧力をかけたのが、アメリカ帝国主義(日米同盟)と産業資本(経団連)だったことはマスメディアも伝えていた。
ここにおいて、日本の原子力政策がアメリカ帝国主義の核戦略の中に完全に組み込まれていることが改めて明らかになった。端的には、一九八八年に新たに締結された「日米原子力協定」とそれにもとづく「両国政府の間の実施取極」によって日本のすべての原子力関連施設が管理されているとともに、日本の原子力政策の「出口」が押えられていることである。すなわち、その「実施取極」によって、原発を稼働させることによって生産される使用済み核燃料、およびその再処理によって生成されるプルトニウムや高濃縮ウランなどは、六カ所村再処理施設など以外では「形状・内容の変更、貯蔵」を行えないとされている。こうした管理下で、核兵器の原料となるプルトニウムを保有・蓄積する日本は「潜在的核保有国」になっている。
脱原発の要求がこの日米同盟体制と衝突することを、昨年九月一九日の「原発ゼロ閣議決定見送り」が一瞬垣間見せたとはいえ、二〇一一―一二年の脱原発運動は、これをはっきりとした射程内にとらえることはできなかった。
(2)日本産業ブルジョアジーは原発を容易に手放そうとはしない。廃炉や使用済み核燃料の処理にかかる莫大な費用を国家(および電力消費者)が肩代わりするために、「安くつく」からである。また、福島第一原発事故で経験しているように、たとえ過酷事故が起きて数えきれない人びとが深刻な被害をこうむったとしても、「国策」に守られるかぎり電力資本は破産するおそれがないからである。さらに、ドイツブルジョアジーにならって再生可能エネルギー技術分野に集中投資した場合、生じるかもしれないリスクを負いたくないからである。
こうして、明治以来今日にいたるまで、国家の庇護のもとで自己形成し、国家の陰に隠れたり国家を狡猾に利用したりするケチな性分を思う存分養ってきた日本ブルジョアジーは、「原発ゼロ閣議決定」に強力な圧力を加えた。
首都圏反原発連合は、ある種の正当な直感で毎月第四火曜日に経団連前抗議行動を組んでいるが、それ以外には、二〇一一―一二年の脱原発運動は、産業資本をはっきりとした射程内にとらえることはできていない。
(3)原発立地自治体では、首長や議員にかぎらず、原発関連企業や多くの住民にいたるまで、原発という「地域基幹産業」と原発にともなう各種交付金・給付金・寄付金などに深く依存させられてしまっている。そこで「再稼働反対」の声を公然とあげるのは至難の業である。また、原発建設に反対し今なお「反対同盟」の旗を降ろしていない数少ない人たちは、高齢化してしまっているか、すでに鬼籍に入っている(女川のように、後継者が闘い続けているところもあるなど、それぞれに事情は異なっている)。この「反対同盟」とそれを支える人たちへの最大限の敬意と連帯のもとで、原発から三〇キロ~五〇キロ圏内の地域における「再稼働反対」の運動を形成し、それを全国的に連合させていく闘いは、これまで以上に厳しくなるかもしれない。
それでも、われわれは、原発という「地域基幹産業」をなくすことが地域の崩壊に直結しないようにするために、あらゆる配慮をしなければならない。三〇キロ~五〇キロ圏内の地域とともに共生できる道をさぐるために、国家があらゆる支援を惜しまないよう要求していかなければならない。少なくとも、原発立地自治体住民に対する共闘のための「温かいまなざし」とその「まなざし」を堅持して闘うことは、絶対に必要である。
(4)福島第一原発事故によって、ヒロシマ、ナガサキ、ビキニに続いて、多くの人びとは放射能被曝を現実のものとして感じざるをえなくなった。それは、被曝地域住民がこうむる過酷な被害と目に見えない放射能への広範囲にわたる住民の恐怖であり、原発労働や「除染」労働に携わる労働者が直接こうむる被曝である。
すべての原発を停止状態で管理するにしても、定期点検するにしても、廃炉にするにしても、使用済み核燃料を別の場所に移して「使用済み原子炉」として管理するにしても、放射能被曝地域を「除染」=移染するにしても、それらを行うのは生身の労働者である。そして、被曝労働は、労働者の権利(働く権利、働く場での権利)を鋭く突き出す。被曝労働において労働者の権利を獲得していく闘いは、今日、労働者の働く権利と働く場での権利の獲得・防衛という第一級の意義をもっている。
この点で、二〇一一―一二年の脱原発運動は、「被ばく労働を考えるネットワーク」という貴重な依拠点を獲得した。福島における取り組みと、それを物心両面から支える全国運動の形成はとりわけて急務である。
(5)福島第一原発事故による被害に対する補償は、「現在」だけでなく、そこに暮らしてきた人々がこれまで努力を重ねてきた「過去」に対しても、さらには事故がなければあったであろう「将来」に対しても、無制限になされなくてはならない。
生活基盤を根こそぎ破壊し尽くされ、社会として成り立たなくされてしまった放射能被曝地域では、今なお住民帰還の目途はたっていない。「除染」はごく限られた場所では一定の効果がみられるとしても、放射性物質を取り除くことはできず移動させるだけなので、移動させた放射性物質を保管する場所が必要になる。また、空気や水の流れによって絶えず広範囲で移動する放射性物質の性質からして、「除染」の効果はさらに限定される。それにもかかわらず、政府(環境省)は、あたかも「除染」が広大な生活地域で可能であるかのような幻想を振りまきながら、莫大な費用を投入して「除染」作業を進め、なおかつピンハネや手抜き作業を続発させている。
避難させられ、バラバラにされ、一人ひとり異なる事情をかかえる住民たちの中に、かつての地域コミュニティの復活と帰還が可能であると願う人はいるとしても、そうした願いを悪辣にも利用して住民たちが疲弊しあきらめるのを待ち、保障の範囲を狭めようというやり口が横行しているのだ。完全な保障のもとで地域コミュニティの復活と住民一人ひとりの選択の自由の両面を尊重した「新しい町」づくりをこれ以上遅らせるわけにはいかない。
「福島原発告訴団」による事故責任の追及とともに、以上のような補償問題は引き続き取り組みが強化されなければならない。
「脱官僚依存」のもとで進められる公務員労働者攻撃
マルクスによれば、「官僚制は実在国家と並び存する想像上の国家であり、国家の精神主義である」。「官僚制は社会の精神的在り方である国家存在を所有しており、国家存在は官僚制の私有物である。官僚制の普遍的精神は官僚制そのものの内部では位階制により、外に対しては閉鎖的団体として守られるところの秘密、秘事である」。「個々の官僚の場合には、国家目的は彼の私的目的となり、より高い地位の追求となり、立身出世となる」(「ヘーゲル国法論批判」、『マルエン全集』第一巻)。
大日本帝国憲法下では、天皇に任命された官僚制度である「勅任官制度」があった。それは、日本国憲法下でも「キャリア官僚」には「大過なく」一生をすごしたあと、「従四位」などの叙位がなされ、政府より上位にある天皇=国家に任じられたという精神をもち続けるという形で引き継がれている。
「局益あって省益なし、省益あって国益なし」と自嘲気味に語られることもあるが、「国家目的」はまさに官僚の「私的目的」となっている。たとえば、外務省では日米同盟はゆるぎない「省益」であり、経産省では原発推進はゆるぎない(ゆるがなかった)「省益」であり、国交省では公共事業拡大がゆるぎない「省益」であり、財務省では国家財政の収支の管理以上に各省庁への財政配分力がゆるぎない「省益」となる。
この「秘事」に満たされた「閉鎖的団体」は、「外」からは「異様な存在」として映り、官僚=悪代官のイメージと結びつきやすく、官僚をターゲットにしているかのようにふるまうことは、イメージ操作としては容易である(「みんなの党」は、この側面を徹底して利用している)。
「脱官僚依存」を掲げていた民主党が政権につくと、国家官僚はサボタージュを決め込んだ。それに対して民主党は稚拙なパフォーマンスを繰り返したにすぎなかった。国家官僚とは各省庁の「省益」にほかならず、それに対して「新しい国家意思」と人事権をもって「省益」を再組織するか、あるいは解体する以外に、「脱官僚依存」のパフォーマンスはなんの意味もなかったのである。結果、官僚制度はびくともしなかった。
そして、今回の衆院選で自民党が小選挙区制のマジックのもとで「圧勝」した瞬間から、各省庁官僚が満を持していたかのように動き出した。また、日銀総裁もまだ首相ではない自民党総裁に「あいさつ」に訪れ、マスメディアも自民党系の「専門家」や「政治家」を次々と登場させて迎合するなど、民主党による政権交代時とは比べようのないスピードで自民党政権の始動を後押しした。「ゼラチン」状の「市民社会」の中に血管のように張りめぐらされた「ブルジョア権力構造」の深さをはしなくもあらわにしたのである。
国家官僚が以上のようなものであったとしても、「脱官僚依存」を象徴的イメージとして駆使しながら現実に進行したのは、公務員労働者への人員削減・賃下げ攻撃である。それは、労働者階級の闘争力を最後の最後まで削ぎ落とそうとする攻撃である。「脱官僚依存」をイメージ操作に使うデマゴギーに対して、どれほど自覚的に階級的であっても、度を過ごすことはない。
東京都知事選挙と宇都宮候補の善戦
東京都知事選の投票結果を見ると、「猪瀬」の得票数は、前回(二〇〇九年)の「石原」と「東国原」の合計にほぼ等しく、宇都宮候補は前回の「小池」に三五万票ほど上積みしたことになる。
宇都宮候補は、原発問題・貧困問題・教育問題・憲法問題などにおいて、今日望みうる最高の候補者のひとりだった。この事態をつくりあげていったのが二〇一一―一二年の脱原発運動であり、脱原発運動に参加していった共産党もまたこの動きを拒否できず、独自候補の道を捨てて宇都宮選挙に合流した。準備期間の短さや宇都宮候補の知名度の低さなどを考慮すれば、九七万票の得票は善戦を物語っている。
今回の都知事選において、極めて限定された範囲と時間であったが、共産党系活動家たちと共闘できたことは大きな意味をもっている。共産党のセクト主義と共産党へのセクト主義を打ち破り、広範な人々と共闘する大衆運動の場を形成することは、これからの階級闘争にとって戦略的な重要性を帯びてくるだろう。
(つづく)
(岩堀 敏)
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