新しい情勢局面のもとで何が問われているのか?(下)

かけはし2013年3月18日号

脱原発運動と衆院選が示したもの (下)

「アベノミクス」=「あとは
  野となれ山となれ」攻撃

 今回の衆院選で選挙民が最も関心を示したのは、原発ではなく「景気」だったとされている。
 「景気」は直ちに「経済」を意味するわけではなく(よく混同されるが)、多分にムード的なものである。たとえば、一九八六年から一九九一年までは戦後最長の五一カ月におよぶ「平成景気」と言われたが、その実態は「バブル」であり、労働者階級にとっては今日の不安定雇用・低賃金・失業といった事態の始まりだった。
 このころ、どこに行っても「景気がいいと言われているけど、儲けはどこに行っているんだ。自分のところにはちっとも来ない」という会話が聞かれた。「儲け」(剰余価値とその実現としての利潤)の多くは、金融化されて二〇〇八年の「リーマンショック」で最終的に紙屑になったか、産業資本が「内部留保」などの形で自分の金庫にしっかり貯め込んでいたのだ。
 「景気」がよくなるという場合、そこには矛盾した要素が混在している。GDPの増加は、それだけでは産業資本にとってのみ有利に働く可能性が高いし、輸出産業資本は円高の是正(円安)を望む。また、株式や不動産所有者は、株価の上昇、デフレ解消(インフレ)を望む。そして、多くの労働者が求めるのは、安定した雇用、可処分所得の上昇、社会的所得配分機能による格差の是正、各種社会保障の充実などであろう。
 こうした中で、「レーガノミクス」をもじった「アベノミクス」なるものが、鳴り物入りで登場した。「二%のインフレターゲット」が打ち出されると、公式の政策になる前から株価が上昇し、円安に振れた。「円」の貨幣価値低下を見越して、「儲けられるうちに儲けておこう」と、金融資本(ヘッジファンド)とバブル再来を望む株式・不動産所有者層などが先を争って目ざとく反応しているわけである。
 さらに、公共事業費の大幅な増額が打ち出された。都会に暮らす人たちには実感できないかもしれないが、建設業が基幹産業になっている地域は少なくない。中小建設業者は期待感をふくらませるが、設備投資はもちろん、雇用の拡大には慎重すぎるほど慎重になるだろう。それでも、公共事業費の増額は一定のムードを形成することは確かである。
 自民党の地域組織は、「これでわが町も良くなる」と集票に邁進する材料を獲得することができた。安倍政府の最大のねらいは、ここにある。政治学者の言う「合法的買収」によって七月の参院選を有利に展開し、改憲のための条件を得ようとしているのだ。
 これに加えて、消費増税を前提にした自公両党の「税制改正大綱」および生活保護費削減攻撃は、年収およそ五百万以上の世帯には一定の「配慮」をするとしても、それ以下の世帯は完全に切り捨てるという態度を露骨に示している。これは、参院選での集票につながる層にだけ「配慮」するというだけでなく、毒性の強いカンフル剤である「アベノミクス」による財政赤字の膨張、国民経済のさらなる疲弊という副作用を、実質賃金と社会保障水準のさらなる切り下げ、貧困と格差のいっそうの拡大という形で、マスメディアの光のあたらないプロレタリアートに押し付けることをすでに開始しているのだ。
 まさに、とにかく七月参院選、「あとは野となれ山となれ」政策への驀進である。そのあとは、自民党がどのタイミングでどのようにして公明党を切り捨てるかが、ひとつのターニングポイントになるだろう。

かれらの労働組合と
  われらの労働組合

 労働組合の社会的価値が今ほど二分されている時代はない。「産業防衛組織」と化した電力総連などの「かれらの労働組合」は、資本と一体になって労働者と地域を管理・支配しようとしている。その一方で、労働者の働く権利、働く場での権利を獲得するうえで、「われらの労働組合」は切実な「最後の砦」になっている。
 「われらの労働組合」運動は、まず第一に、労働者の働く権利、働く場での権利を獲得・防衛するために全力を傾けるだろう。第二に、最低賃金の引き上げを生活保護の拡充と一体として闘うだろう。第三に、連合傘下であれ、全労連傘下であれ、全労協傘下であれ、○○の会、○○実行委員会などさまざまな形で労働者の横断的な連帯を地域的・地方的レベル、全国レベルで継続的に築くために細心の注意を払うだろう。そして第四に、「労働組合運動だけの連携」ではなく、常に「市民運動」を含む社会運動・政治運動との連携を真摯に追求するだろう。
 これらは、「最小限要求」であるが、今日の情勢下では、これらを実際に闘い取ることは容易とは言えない。それだけに労働者の闘争力をここに集中しなければならない。たとえば「銀行の国有化と労働者管理」がいつでも「過渡的要求」になるわけではなく、「全国最低賃金を千円にしろ!」という要求が、「連合」の一部も巻き込んだ全国的な大衆的大闘争になるのであれば、そこに「過渡的要求」の闘いの出発点が築かれる。「過渡的要求」とは、要求の「言葉」ではなく大衆的「闘争力」である。
 「過渡的綱領」は、現在のプロレタリアートから出発してプロレタリアートの権力獲得の入口にいたろうとする戦術のアクティブな組み合せである。

「リベラル」結集の困難性と
リベラリズムへの圧力

 すでに見たように、今回の衆院選は「リベラル」勢力(「資本から独立しきれてはいない中間的な左派的あるいは中道的傾向」と言いかえてもよい)結集の困難性を無慈悲に突きつけた。だが、このことは「リベラル」勢力結集の試みが、これからもありえないことを意味するものではない。
 なぜなら、小選挙区制度によって議会や政府レベルの動きと社会や大衆レベルの動きの間の距離が極度にひろがり、前者が後者を規制するとしても、そことは分離された後者が独自の動きを示し、時間的にはいったん間をおくような形で前者に働きかけることになるからである。
 また、「一九八〇年代の敗北」以来引き続く労働者階級の抵抗力の極度の弱さ、およびブルジョア的な政策上の選択肢の極度の狭さとして特徴づけられる今日の情勢下では、個別化され分散した中でも抵抗運動の中断はありない。社会運動・政治運動としての脱原発運動、未組織労働者による労働組合の形成と労働者の権利を求めるさまざまな闘い、賃上げ要求闘争、野宿者の生きる権利を求める運動、「われらの労働組合」のさまざまな闘い、教育労働者と自治体労働者にかけられる攻撃をともにはね返していく闘い、沖縄反軍事植民地闘争、オルタグローバリゼーション運動……。
 個別化され分散されても、人々が生きるための抵抗運動は、必要に応じて大衆運動のレベルで横につながろうとするかもしれないが、それを実際に実現し持続させるには、なんらかの横断的な「活動家集団」あるいは「政治勢力」が求められる。今のところ、この「なんらかの活動家集団あるいは政治勢力」が直ちに「反資本主義左翼」になるとは考えにくい。むしろ、「資本から独立しきれていない中間的な左派的あるいは中道的傾向」になる可能性が大きいと言えるだろう。
 同時に、この「リベラル」勢力の結集のためには質量ともに大きなエネルギーを集中しなければならないことや、「政治地図」に空白が生じるとそこを埋める動きが出てくるという力学を考えれば、さまざまな左翼勢力に対して(ある種の「政治的改良主義」としての)リベラリズムへの圧力が高まることになろう。また、かつて社会党‐総評運動の左に左翼勢力が成立しえたように、「孤立した思想運動」にとどまることなく意味ある大衆的存在であろうとすれば、左翼運動は「リベラル」勢力の左にこそ成立しうることになろう。したがって、形成されるであろう「リベラル」勢力と形成されるべき「反資本主義左翼」の統一戦線戦術が、今後の展望としてしるされることになる。
 現状では、こうした事態がどこから、どのように現われてくるのか、具体的にはっきりしているわけではない。おそらく、全国レベルではなく、地域的・地方的レベルで強まったり、弱まったりを繰り返していくことになるだろう。その観点からすると、宇都宮東京都知事選挙はそうした動きの一端と考えることができる。この点で、展望を現実へと引き寄せるための実践にもとづく、いっそうの明確化が求められていくだろう。

大衆的左翼勢力の再生を
     めざすために

 二〇一一‐一二年の脱原発運動は左翼勢力に多くのことを教えた。そこには、少なくとも以下のことがらが含まれよう。
(1)この間の脱原発運動に「新しさ」を与えてきたのは、三〇代から四〇代の年齢層の登場である。この層は、「一九八〇年代の敗北」の結果、失業・不安定雇用・低賃金(労働分配率の極度の低下)という三重苦をもろに背負わされることになった。この層にとって、ソ連邦も社会党‐総評運動も、あるいは自民党長期単独政権も、もはや記憶にはなく完全に「歴史」の領域に入っている。今や社会の中堅層を形成しようとしており、バラバラにされ、社会的連帯は言うにおよばず頼りになる組織や議会選挙での一票以外の政治経験をもったことの少ないこの層が、ようやく「声」をあげ始めた。
 民主党を押し上げて二〇〇九年に政権につかせるうえで不可欠の力になったのも、大阪で「橋下」(全国的には「維新」)を積極的に支持してきたのも、この層であろう。その意味では、この三〇代から四〇代の年齢層は、最も大きく政治的に流動していると考えられる。かれらは、左翼運動を含めて、これまでの「政治」に深い不信をいだいている。だからこそ、この層の内部に「左翼政治グループ」を形成することは、困難であっても戦略的課題になっている。そこを媒介してこそ、一〇代から二〇代の「青年」への道が拓かれていくであろう。
(2)昨年九月一九日、民主党政府が「革新的エネルギー・環境戦略」の閣議決定を見送った時、(できれば政府の陰に隠れていたかった)アメリカ帝国主義と産業資本という「本当の敵」(犯人)が現われたことを、大衆的に暴露する絶好のチャンスであった。それは、脱原発運動が社会運動・政治運動として前進していくうえで不可欠の課題でもあった。
 しかしながら、多くの左翼はそろって「野田政権打倒」を掲げて唱和した。自民党長期単独政権と、それに対抗する社会党‐総評運動が成立していた時代に、「自民党政府打倒」のスローガンを掲げた場合、それにとって代わるのが「社会党中心の政府」であることは自明のことだった。それは、中途半端であっても政府の階級基盤が移行することを意味していた。また、社会党(民同)に左から圧力をかける大衆運動を組織することをつうじて、社会党‐総評運動全体を左傾化させることがある程度までは可能だった(「左翼バネ」が働くと言われた)。民同の「マッチ・ポンプ」(マッチで火をつけておいて、炎が上り始めるとポンプをもってきて消しにかかる)に対して、いったん上った炎をさらに燃え上がらせるという戦術は、しばしば一定の有効性を発揮した。
 だが、こうしたことは、今では遠い過去の「歴史」になっている。多くの左翼はこの古い発想から脱却できず、一瞬のあいだ姿を現した「敵」(犯人)をやすやすと取り逃がしてしまった。このことは、苦い経験として教訓化されなければならない。政治情勢の局面、局面に対応することが、これからますます問われることになるからである。
(3)これは、今後の情勢展開を考えると、極めて重大な問題を提起する。すでに述べたように、今日の情勢は「政府危機の常態化」を構造化してしまっているが、それに対する労働者階級の側の準備はあまりにも弱い。端的に言えば、「自民党政府打倒」は、「維新政府」(あるいは「維新を含む連合政府」)を意味することになるかもしれない。「政府打倒」のスローガンをただ弄ぶだけでは、無自覚のうちにボナパルチズムへの片棒をかつぐことにつながりかねない。「政府打倒」のスローガンは、適切な条件下で適切な方法で掲げられないかぎり、それだけでは「左翼」的スローガンにすらなりえなくなっている。
(4)こうして、自派の存在のみをセクト的に誇示する政治カンパニア一辺倒の左翼運動は、有効な運動としてはもはや成り立たなくなっている。
 実力ある反政府全国政治闘争に向かうためには、社会運動・労働組合運動と政治カンパニアの相互補完関係、すなわち「自分たち」が生きるための自治と「自分たち」の民主主義を求める社会運動・労働組合運動の側からの政治運動への絶えざる上昇、政治運動による社会運動・労働組合運動の絶えざる深化・拡大という課題が提起される。端的に言えば、東日本大震災と原発被曝という二重苦にある福島における社会運動・政治運動と全国大衆運動との連携の強化が待ったなしで問われている。(おわり)
 (二〇一三年二月九日)(岩堀敏)

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