母の歩んできた道
コラム「架橋」
昨年12月29日に母はグループホームで脳梗塞を起こして意識をなくし、市民病院に緊急入院した。31日午前0時半に亡くなった。享年95歳。
母は私の静岡県の実家の隣村に3人兄弟の長女として、1927年に生まれた。家は農家ではあったが教育一家だった。戦前、母は14歳から18歳まで4年制の高等女学校に通った。冬は下宿し、夏は近くの駅まで自転車、そして地方線を乗り継ぎ学校へ。
太平洋戦争の末期であり、卒業後、国鉄浜松工場の旋盤職場へ。機関車の部品を作っていた。2年間働いた。そこでは米軍の艦砲射撃や寮にいた時、爆撃にあった。防空壕に入ったら、戦闘機の機銃の音が聞こえた。浜松の街は空襲で焼かれた。工場は鉄骨になってしまった。山梨に疎開した。1945年敗戦の日、8月15日は家に帰っていた。1944年には東南海大地震もあった。
そして2年後、父と結婚した。母の話によると、嫁ぎ先のおじいさんは毎日半年にわたり、母の実家に母を嫁にもらいたいと訪ねたという。
嫁ぎ先は戦前まで種屋だったが、化学肥料の発達や農地解放もあり、種屋を続けることができず、普通の農家になっていた。そこで、1957年に温室メロンを始めた。苦労しながら、温室を12棟まで増やし一定成功した。70歳の時、父が体調を崩して温室メロンをやめた。それ以後は畑に花を植え、少しの畑を耕し穏やかに過ごしてきた。
父と母は育ちが全然違い、趣味も違っていたので相性がいいと言うことではなく、家父長制の父親に泣かされてきた。父は夕方4時頃になれば、必ず飲みに出掛けた。温室は母が中心だった。料理は父親が作っていた。父が80歳で倒れて特養に入ってからは、母はずっと一人住まいで過ごした。
母は万葉集、平家物語、源氏物語など本が大好きで、万葉集はすべてそらんじられた。温室仕事での唯一の楽しみはラジオであり、必ずラジオを聴きながら仕事をしていた。この習慣は、メロンをやめてからもずっと死ぬまで続いた。ラジオから得られる情報によって、政治・社会の動きやいろんなことについて知識を得ていた。
花作りも好きで、空いた畑にいろんな花を植えて綺麗に咲かせていた。趣味人の父が飼っていた孔雀の世話もしていた。
母にとって、最大の悩みは緑内障を発症し、目が年々悪くなって見えなくなっていったことだ。父が80歳で倒れてから、母への支援を始めた。私は毎月一回金曜日から日曜まで、田舎に帰り、料理を作ったり、家周りの雑草刈りや畑の世話をやってきた。
母は青春時代を戦争に翻弄され、そして戦後は農家の嫁として苦労した。そんな時代を生きたからだろうか、介護士さんやヘルパーさんから、「〇さんは凛としていて、〇さんといると癒される」と言われた。人への思いやりがあり、きちんとした生き方をしてきた母だった。
高校時代に家出して闘争を行った私に対して、母は「お前の思うようにしたら」と言ってくれた。戦争については「敗けてよかった。そうでないと戦争が長続きしてもっと大変なことになった」とも。グループホームに入所して3年半、16年の支援だった。昨年実家も処分した。母に感謝。故郷は遠くなりにけり。(滝)