活動家への道

コラム「架橋」

 5月19日、朝日新聞の天声人語の欄に勝鬨橋について書かれていた。橋の完成は1940年、この年、東京万博が計画されており、会場へのアクセスの一部として建設されたらしい。万博の会場予定地は今の築地から豊洲にかけての場所だったらしい。
 それにしても最近万博のニュースをよく耳にする。世界一の木造建築と言われる「大型リング」は是非とも見てみたい。私が世の中に五輪以外に万博というイベントがあることを知ったのは1970年である。
 この年私は、東大闘争の安田講堂占拠闘争で逮捕され、中野刑務所に入っていた。面会にきた彼が「これから大阪の万博に行ってくる」という言葉で万博を知ったのであり、「太陽の塔」は岡本太郎が作成したものであるという事実もこの前後に初めて知った。
 1940年、日本は国際連盟から脱退し、満州事変から日中戦争への道をひた走っていた。一方で平和の祭典を押し進め、一方で戦争への道を進んでいたのである。ロシアとウクライナ、アメリカとイスラエル・中東・ガザ問題を私たちは今一度真剣に考えないといけない。
 ここに人間史の現在が存在するのであり、今日の歴史があるように感ずる。
 同じく5月19日朝日新聞、折々のことばに、映画・チャップリンの「殺人狂時代」の話が書かれている。私はチャップリンがこの映画の完成直後に米政府の「赤狩り」のためにアメリカから追放されたことを伝記で知った。
 この本を教えてくれた友も万博を教えてくれた彼だ。原宿に入院している時に、20数年ぶりに見舞いに来てくれたのだ。彼は就職するとレバノンに転勤していった。彼が鎌倉に住んでいた頃、よく金沢文庫や八景、大船で朝まで飲んだ。彼の連れ合いは子どもの頃の遊び友達で、非常によく知っていたが、彼と彼女が結婚するのを知ったのは二人の結婚式の日であった。
 一度レバノンから電話をもらったことがある。「休日、地中海でアジを釣ったが食い方を教えろ」という脅迫である。
 こうした高校時代の友達を私は10人くらい持っている。時には羽田で、三里塚で、砂川で彼らと再会した。私が活動家になったのは彼らのせいだと今日確認した次第。            (武)