コラム「架橋」

医療、介護、看取り

 母が老健から特養に移り、1年が経過した今年3月。面会禁止が続くなか菓子の差し入れに訪れると、「食欲が落ち体重が減っている」と告げられた。ケアマネは「食が細くなったのですかね」と軽く考えたようだが、2カ月以上も遅れて届いた昨年12月の健診結果では、他の所見と共に貧血の進行が指摘されていた。
 4月19日。契約病院で腹部CT検査が行われ28日に結果を聞きに出かけた。大腸の一部が膨れあがり「八割がた癌ではないか」と女性主治医Sは言った。体力と年齢から「当院や大学系病院では精密検査はしない」という。私は都立K病院を挙げてSと合意し、連休前に受診を予定した。ケアマネは面会を許可し翌29日、1年ぶりに母の手を握った。衰弱が激しく移動や内視鏡検査に不安を感じた私は受診を取り消し、施設の勧めで5月6日「看取り契約」に署名した。面会できない家族に最後の寄り添いを許す一方で、「不審死」として警察の介入を防ぐ目的も施設にはある。
 生涯でもっとも辛い大型連休だった。ケアマネはさらに「自宅での看取り」を進言した。実家の弟妹は仕事が休めないことや、未知の行為への恐怖もあって、予想通り受け入れを拒否した。一方で医師や看護師・ヘルパー事業者を決める在宅介護の準備は着々と進んだ。私は家族の説得と対立に疲れ果て、自室アパートに引き取ることを決めた。母の大好きな田端義夫のCDをアメ横で買ってきた。レンタルの高機能電動ベッドは、狭い部屋の半分以上を占めた。
 移動日を翌日に控えた5月19日夜、施設から電話があった。「38度の熱が出ている。今から来ますか」。呑気な言動に腹が立ち、「行きますよ、すぐに行きます」と答え、約20分で施設に駆けこんだ。
 母は2階のベッドでうなされていた。ケアマネは「癌の末期にはよくある症状」などと言い放ったが、私にはこのまま死ぬとはどうしても思えなかった。ケアマネは「救急搬送してもベッドがないだろう」「かなり遠くになるかも」「病院では面会はできない」などと繰り返し現状を放置した。1時間以上の応酬の末に私は「看取り契約は解除だ。救急車を呼んでくれ」と声を張りあげた。驚いた職員が一一九番すると、救急車はすぐに到着した。
 救急隊の質問に私は、特養の提携先も含む3病院を挙げたがすべて断られた。4件目のH病院に搬送が決まり、車は深夜の幹線道路を疾走した。奇しくも元職場の近くであった。隊員が車内で酸素マスクを口に当てると母は初めて目を開き、私の問いかけに小さく頷いた。
 日付をまたいだ精密検査の結果は「誤嚥性肺炎、尿路感染症、大腸がんの疑い」。
 プリントされた結果表には白血球数はじめ異常数値が並んだ。ここまで症状が悪化していることに救命医は溜め息をついた。同行したケアマネは沈黙を貫いた。以前から特養に望んでいた入院による低侵襲治療が説明された。私は深々と頭を下げた。午前4時過ぎ、病院前からタクシーで帰宅した。
 H病院では面会全面禁止。患者家族からは病状経過を問えず、医師の電話連絡を待つのみだ。点滴を抜かぬよう「抑制」の同意書にもサインをした。母は今、抗生物質の効果で肺炎からは回復しているという。特養からはその後何の連絡もなく、双方の関係は修復されていない。多人数を巻き込んだ在宅介護計画は、すべて白紙に戻った。ベッドは業者が回収していった。
 88歳の彼女は今、三途の川の途中から、ゆっくりと此岸へ引き返しているのか。会えぬことを知りながら家族は今日も病院に向かい、祈りを捧げている。     (隆)

前の記事

アンブレイカブル

次の記事

台湾海峡危機