コラム「架橋」

刻々と近づく日を前に

 「オリンピックの開催の意義は?」と問われても、都知事も組織委員会も政府も何も語らず「事」だけが進んでいる。「開催中止」の声に包囲された「国」を離れ、G7首脳宣言に「東京オリパラ支持」を盛り込み、「開催」が「公約」になったかのように振る舞う5者会議の面々。いま、この国を襲っている「第5波」の感染拡大が現実のものになっている。G7の支持表明をテコに「五輪開催」支持の世論浮上が至上命題となった。そんななか、NHK世論調査の変化が指摘報道されている。
 以前の調査では「開催」「中止」「さらに延期」の三択だったのが、直近の調査では「延期」という選択肢を外し、「開催」の選択肢を「①これまで同様・観客の人数制限・無観客開催」に増やした結果「開催支持」が6割強に達したということだ。
 例えて考えれば次のようなものだ。「もし、もしもだよ!開催するとすれば無観客にしたらどうかな?」。次は「もし、もしもだよ!開催するとすれば人数制限したらどうかな?」「もし、もしもだよ!上限を設けて人数制限したらどうかな? 例えば収容人員の50%とか最大5千人とか?」。開催前提の「もし、もしもだよ」によってハードルを下げ「開催支持」のすそ野を広げたのだ。
 2013年9月IOC総会での東京オリンピック招致アピール。各国の出席者から原発事故への懸念に、安倍前首相は「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は福島第一原発の港湾内0・3平方キロの範囲内で完全にブロック」「全く問題はない」と、世界を欺き五輪を東京招致に導いた有名な「アンダーコントロール」だ。
 何度も読んだ詩集の中の一編の詩。「2020年 東京オリンピック」《日本中が歓喜の渦で沸きかえり 新聞の一面は「2020年東京オリンピック開催」の文字が躍る 良かった 本当に良かった と 喜ばなければならないはずなのに この虚ろな感じは何なんだろう ボクの居る日本と違う もうひとつの日本 血わき 肉おどる 情熱がほとばしるはずが どうしたというのだろう  素直に喜べない 虚しく東京電力福島第一原子力発電所の空をみる》。
 何度も避難所を変え辿り着いた4畳半一間の「仮設住宅」。原発事故が強制した過酷な現実と日常のなかでの不安と苛立ちと苦しみを「仮設住宅」から聴く。あの日、被災地は被災者は被害者は避難者の放つ呻き声は、安倍前首相の靴底で踏みつけられていた。美化され発信された言葉が、また被災地の人々を苦しめ続けてきた。
 そして今、菅政権は「汚染水貯蔵タンク敷地が逼迫しており、福島の廃炉を進め復興を成し遂げるためには避けて通れないので判断した」と「汚染水の海洋放出方針」を決定した。安倍路線の継承者にとって「汚染水の影響は全く問題ない」と言う。不都合なことはすべて「無視」を決め込む政権に取って「五輪開催」は「万能薬」に見えるらしい。「国民は熱狂し政権を覆う霧もパッと晴れ支持が拡大し選挙勝利」だと。
 描いている青写真はアベノマスクを彷彿させる陳腐な思い込みの世界だ。次々と明らかになる「特別な存在」五輪貴族と五輪ファミリーへの「お・も・て・な・し」。そうだ! そうなのだ。巨大な利権に群がる奴らが好む裏街道は「表無し」の世界だ。
 コロナ禍での「五輪開催」と言う異常性は、私達を『五輪貴族』の人身御供にすることだ。許せない! 直ちに「五輪を中止せよ!」。腐敗堕落の極みの政治を変える日が刻々と近づいている。 
(朝田)

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