コラム「架橋」
武田信玄生誕500年
3日前の6月18日、古い友人からふざけた手紙が届いた。「コロナ禍の最中に、このような手紙を出すのは失礼と思いましたが、期日のない招待状と思って読んで下さい。コロナ騒動が終息したら遊びに来て下さい。同封しましたパンフレットは、そのための判断材料です」。「今年は武田信玄の生誕五〇〇年ということで、山梨県内では武田神社をはじめとして一年中どこかで祭りが開かれています。この広がりをみると山梨県人は今も信玄公を大好きであることがよくわかります。うれしくなります。先日雑誌を開いていたら、私の嫌いな作家・林真理子が、次のような一文を書いていました。『子どものころ祖母に信玄さんがもう少し長生きしてくれたら甲府が東京になっていたんだとずっと言われて育って来ました』と。この一言でちょっとですが彼女が好きになりました」。
今でこそ勝沼のぶどう棚、春日井や甲府市の桃畑、塩山の枯露柿のすだれ干しなど富士山以外の美しい山梨の景色を言うことができるようになり、南アルプスに登るために八王子から夜行に乗り、甲府駅で下車し駅の階段下で一夜を過した経験など数多くの思い出ができたのも、この友人のおかげです。
彼は小学校3年の時に、私の通っていた小学校に転校して来ました。私の生まれ育った町には、大きな製紙工場があり、出て行くのも、入って来る転校生もその製紙工場の関係者や家族でした。したがって転校生のほとんどは東京や静岡県の富士市、宮城県の石巻市でした。
彼は転校してきた時のあいさつで「山があっても山なしという山梨県から来ました」と大きな声で叫び笑いをさそいました。その後彼は先生に私の後ろの席を指示され、それを機会に話すようになりました。それから1週間が過ぎた頃、偶然にも双方の父親が幼馴染みであることを知り、互いの家を行き来するようになりました。私は彼の話を聞くまで山梨県というのは東京の近くにあり富士山がそびえている所ということしか知りませんでした。それから彼は機会あるごとに彼は私に富士山はいかに美しいか、武田信玄はいかにえらい人か話してくれました。私は彼に洗脳されたのです。それ以来東京よりも行きたい県が山梨県になったのです。彼は中学2年の時、再び山梨に戻り、再会できたのは私が上京した翌年、1975年の冬でした。甲府の駅前から彼に教えられた通りバスに乗ると前方の窓には八ヶ岳、左の窓には南アルプスが延々と続いていました。当時、私は窓から見える山の名前など知るはずもなくただただ圧倒されました。以降、彼には数々の「信玄隠し湯」や「心頭を滅却すれば」で有名な「恵林寺」などの観光地を案内してもらい、また「人は石垣、人は城」で始まる「武田節」を習い、桃源郷のビニールハウスの中で花見をする山梨人の気風に接しさせてもらいました。
しかし、「富士山にも絶対登れ!」という彼の指導は拒否してしまいました。今になると「登っておけばよかった」とつくづく思います。「登らない」というのは、ヤマヤ気取りのプライドと面子によるものだったことを今ならわかります。後悔先に立たず。 (武)