奥多摩事件 コラム「架橋」

 本格的な夏の到来とともに、必ず報道されるのが「水の事故」である。終わりの見えぬコロナ禍で「自粛生活」も限界か。「青い空の下、思いきり自然と触れ合いたい」と誰もが思うだろう。とはいえ私には、他人事ではない苦い過去がある。
 高校時代。地元グループの遊び仲間は、夏休みを利用して奥多摩にキャンプに出かけた。テントや飯盒を調達し、高価なBCLラジオと一組のトランプをリュックに詰め、5人は国鉄・奥多摩駅に降り立った。
 徒歩で数分。川に下りる細道を見つけ、砂利が三角に集まっている手前の岸にテントを張ろうとした。ところがそこは狭い傾斜地。「真ん中の広い場所のほうがいいんじゃないか」。「そうだな、地面も平らだしな」。衆議一決。私たちは即、移動した。これが悲劇の始まりだった。
 その日どんな夕食を取ったかは覚えていない。セブンブリッジや大貧民。仲間たちはテントに籠り、夜明けまで「徹マン」ならぬ「徹カード」に興じたのである。
 時間の概念は消失しゲームに終わりはなかった。明け方だろうか、テントが外からめくられ「そろそろ移動したほうがいいですよ」と声をかけられた。しばらくするともう一度めくられ、別の声が聞こえた。警告が繰り返されたが馬耳東風であった。
 やがて、カードを並べたビニールシートに柔らかい凹凸が発生した。が、その時点でも私たちはさしたる関心を持たなかった。さらに左右から水が浸入し、カードが浮き始めた。5人はさすがに外に出た。強い雨が降り、両側は「川」になっていた。いや「川に戻っていた」と考えるのが正しい。
 名残惜しそうにゆっくりと後片づけを始めた。位置が「中州」だったことで時間が稼げた。気がつけば対岸にレスキュー隊が待機していた。
 激流に腰まで浸かりながら、ロープで一人ずつ陸に上がった。ボンカレーやツナ缶、ラジカセの類はとうに視界から消えていた。遠い橋の上では大勢の人がこの救出劇を見守っていた。私たちは初めて、自分らの置かれた状況の深刻さに気がついた。私の親は対岸の「氷川キャンプ場」に安否を問い合わせていたという。
 増水の危険性に思いをはせる者はいなかった。無知とは実に恐ろしい。交番での事情聴取を終え上り電車に乗った。ガラガラの車内では中年男性がスポーツ紙を広げていた。「エルビスの死」を伝える大見出しがあった。
 40数年後。仲間の一人と飲んだ時、彼はスマホの写真を掲げた。「たしか、この橋、この川だよ」。奥多摩の現在の風景だった。
 「事件の日付を覚えているかい」。「覚える必要はないよ。プレスリーが死んだ日だ」。係長昇格に祝杯を捧げた。お互い無事に還暦を迎え私は今、最下層非正規労働者として、奇しくも彼と同じ建物で働いている。   (隆)

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