菅退陣と東京五輪
コラム「架橋」
拙稿思案中に「菅退陣」の一報が飛び込んできた。ちょうど一年前の本欄で私は、誕生したばかりの「短命政権」に言及していた。
世論の反対を無視して五輪・パラ五輪を強行したものの、政権浮揚とはならず、コロナ感染を爆発的に拡大させ、制御不能ならしめた。医療現場はひっ迫し救急体制も麻痺。重症化した人々は次々と自宅で息を引き取った。支持率回復に失敗すると身内からも見放され、菅は権力の座から転落していった。
「スポーツと平和の祭典」を謳う近代オリンピックが、戦争と政変に左右され利用されてきたことは言うまでもない。IOCの創設者ピエール・ド・クーベルタン男爵は、フランス貴族階級の危機の時代に育った。1870年の普仏戦争に負け、パリコミューンに恐怖した彼は、スポーツを通じて兵士を鍛え上げることで富国強兵をめざした。考案した「近代五種」は軍事訓練そのものであった。
「銀ブラ」が見つかったIOC現会長バッハは「ノーベル平和賞」を狙っているという点でクーベルタンと共通するが、ノーベルの父イマニエルは、クリミア戦争でロシア海軍の機雷を開発して財を成した人物である。
1936年のベルリン大会では、10万の観衆が右手を挙げて「ハイル・ヒットラー」と叫び、聖火リレーとテレビ中継がここから始まった。1964年の東京大会で銅メダルを獲得した自衛隊出身のマラソン選手・円谷幸吉は、4年後のメキシコ大会での「金獲得」のプレッシャーに押し潰され、謝罪の遺書を両親宛に残して自殺した。
1980年のモスクワ大会は、ソ連のアフガン侵攻を口実にアメリカ、西ドイツ、日本ら62カ国がボイコット。メダル大国不参加のアンフェアさは、コロナ禍での東京大会に通底している。
次点となった選手が「次の大会での金獲得」を宣言する。昨今の彼ら彼女らは異口同音に、勝てば「楽しかった」とコメントし、「支えてくれたすべての人々のおかげ」と謙遜しメディアを賑わしている。だが現代アスリートの肉体管理の過酷さは「楽しさ」に矛盾し、「感謝」では上意下達の集団規律や絶対服従を連想させる。本音なのか、それともトレーナーに指示されたセリフなのか、不自然で作為的、宗教的な感すらある。
オリンピックは、単なるNGOに過ぎないIOCが独占的に支配し、関連組織に富を集中させる巨大興行である。それは「スポーツ」のカテゴリーを超越し、スポーツを支配する「世界最大のサーカス」へと膨張している。政治への人民の批判をそらして革命や反逆を未然に防止する、思想善導イベントに他ならない。まやかしの「共生」で感動を押しつけながら、資本に貢献しナショナリズムに動員する。暴力で反対派を取り締まる究極の国家主義祭典であり、祝賀資本主義の最たる形態なのである。
「呪われた五輪」の改革は不可能、廃止するしかないのだ。 (隆)