「灘五郷の思い出」(10月18日発行)

コラム「架橋」

 本紙の「コラム・架橋」に長きにわたって“灘”の筆名で書き続けてくれた石井俊二さんが8月25日に亡くなった。「やさしくも頑固な人となり」は、本紙9月20日号の尾形、TO両氏の追悼文を読んでいただきたい。私がここで書きたいのは、石井さんと歩いた灘の楽しい思い出と、彼から提案された旅行をかならず実現するという私の決意です。
 彼は阪神・淡路大震災で被災しました。この当時書いた「コラム」は、ちょっと重いものでした。しかし2年後、連れ合いと2人、春の夕陽を背に灘五郷の一つである御影地区を散歩した話を書いていました。江戸時代から続く造り酒屋の建物と白い壁の倉が並ぶ街並が実に美しく描かれていました。
 そして文面には震災の重さを振り払った明るさが満ちていました。この点を電話でたずねると「新しい仕事がみつかった」という返事が返ってきました。私が文面をほめると彼は照れ隠しに「すばらしいのは風景よりも書いてないが、酒屋での利き酒散歩がたのしい」と答えた。
 白壁の倉を“利き酒”に引きつけられ、是非灘を歩きたいと私は石井さんに懇願しました。それがついに実現したのは、それから約1年後の彼岸花の咲く頃でした。
 待ち合わせた最寄りの駅は街の高い場所にあり、街へは延々と坂を下り続ける感じでした。そして駅の背後には六甲の山なみが広がり、いかにも灘という雰囲気をかもし出していました。
 私たちは最初に駅中のデパートでペットボトルの水と肴のために竹輪を仕入れ、街へくり出しました。歩き出して驚いたのは、予想していたよりもはるかに多い造り酒屋の数です。小路を曲がると新たな酒屋が目に入るのです。
 さらにびっくりしたのは、テレビなどでコマーシャルを流しているメーカーの工場の大きさであった。大手の工場は、大通りに面した出入口にトラックを横付けし、通りをベルトコンベアのように使用し、出入口ごとに、北海道・東北、東京・関東、愛知・中京、大阪・関西という具合に行先の名札が書かれていた。おそらく15分に1台の割で酒を満タンに積んだトラックが全国各地に出発していた。
 予想を越えた街歩きにコップ10杯の“利き酒”を飲むには1時間半もかからなかった。“ただ酒”で酔っぱらうのは、酒飲みの名折れと思った私は、「剣菱」の瀟洒な建物で財布から金を出し、飲みなれない大吟醸を注文し、石井さんに「打ち上げです」と合図を送った。帰りの駅にたどり着いた頃には、ベロベロ、へとへとであった。
 この御影行きのあと、石井さんは私に「次は長野の諏訪に行こう」と提案してきた。私は言われている意味もわからず同意したが、翌年八ヶ岳の帰りに諏訪に行ってみた。そこで知ったのは、諏訪湖の淵を走る旧街道の一角のわずか50~60mの両側に造り酒屋が6~7軒も並んでいるのだ。
 そして午後になると山から下山した連中が、近くで売っている「塩羊かん」を手に酒屋の前を右往左往する。聞くと造り酒屋が集まる一帯は、昔から霧ヶ峰や車山からのおいしい水が湧く場所とのこと。その水が造り酒屋を呼んだのだ。
 この造り酒屋群は六甲の灘と霧ヶ峰の違いだけで、古くから酒の街を争ってきたのだ。この事実を知り、私はすぐにOKの返事を出した。だがこの直後、石井さんが身体をこわし、その後私も身体をこわし、今も約束は宙に浮いたまま。「石井さん、諏訪はいいよ。酒は真澄に横笛。肴は山菜もあり、諏訪湖の魚貝類のつくだ煮と天ぷら…」。心から哀悼のまことを送る。いつか諏訪で飲もう。  (武)

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