十三回忌(10月25日発行)

コラム「架橋」

 フェイスブックつながりの友人のひとりであるIさんから、突然、原田節同志が那須岳で雪崩により亡くなってちょうど13年になるので13回忌をやろうとチャットで連絡が入った。「緊急事態宣言も開けたのでやるのは今しかない。この時期を逃すと来年になってしまう」とのメッセージも添えられていた。
 原田さんが雪崩により亡くなったのは、2009年4月2日。同年1月に那須岳で亡くなった山仲間の慰霊登山のため、那須岳と朝日岳の鞍部、峰の茶屋方面に向かう途中の出来事だった。5人のパーティーのうち原田さんだけが、雪崩から脱出できず埋没。懸命の救出作業にも関わらず、帰らぬ人となってしまった。後世を妻とともに農業で生きようと、東京から茨城県牛久に移り住んだ矢先のことだった。彼の葬儀の際、ジャズが流れる中、入口に小さな耕運機が置かれていたことをいまでも鮮明に覚えている。
 Iさんは、かつて三里塚闘争で現闘を10年の長きにわたって務めた人物。面子はと尋ねると、同じく現闘員だったTさんとボクを含めた3人とのことである。場所は、3人の居住地の真ん中をとって鎌倉あたりではとの提案だった。場所はボクに任せるというので行きつけの店を予約すると返答し、午前11時に大船駅で待ち合わせすることになった。Tさんの要請で深酒になるのを避けるため昼酒となったしだいである。
 近頃、「かけはし」誌上で次々に同志たちの訃報が掲載され、あの人がこの人がと胸を痛める日が続いた。70代の訃報は、あまりにも若すぎる。3人だけの13回忌は、腰越の料理屋に腰を据え、相模湾の海の幸を肴に献杯から始まった。原田さんの思い出話の中で、彼がいま生きていたら72歳になるとのこと。Iさんはいま70歳、Tさんは71歳、そしてボクはずっと年下で当年63歳になる。逆算すれば、原田さんが雪崩により亡くなったのは59歳という若さだったことを改めて痛感した。
 当然、管制塔を占拠した1978年の3・26闘争の時は、みんなもっと若かった。原田さんは、その時、前年の5・8闘争における被告で、機動隊の催涙弾水平撃ちにより頭部を直撃され虐殺された東山薫さんの目撃証人で獄中にいた。たぶん27歳くらいだったと思う。そして、彼が亡くなったあとの13年はあっという間に過ぎた。光陰矢のごとしである。フェイスブックという文明の利器がなければ、今回の集まりはたぶん無かったと思う。
 ああ、こうと話をしながら杯は進む。当然のこと冷酒を注いだ二合徳利は次々と空になり、軽く終わりにするはずだった昼酒は、しだいに深酒となった。その量はたぶん一升瓶を軽く超えていたに違いない。
 2時間ほどして場所を材木座にある蕎麦屋に移して2次会。もりそばを肴にまた冷酒を痛飲し、最後に小町通りの珈琲店で再会を約束してお開きとなった。
 ここで余談だが、IさんともTさんとも集会や大会以外で10年近くは会っていなかった。当日の大船駅で、ボクは改札口付近に立つ人の中にIさんと思われる姿を見つけ声をかけた。
 マスクをしているので顔全体は見えないが、鼻から上の人相が彼に似ていたのである。相手も何の違和感もなく「しばらく。前より若返りましたね」などと応じ、脇に立つ女性も「いつもお世話になってます」とボクに頭を下げる。女性連れとは聞いていなかったので、Tさんはと尋ねるとこの3人だという。
 そうこうしているうちにお互いにこれは人違いだと気がついた。闘争当時ではないが、人体の判別をさせないためのマスクがなしえた笑い話である。       (雨)

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