歯科医放浪記
コラム「架橋」
先日、数十年ぶりに奥歯を抜いた。歯茎が腫れたまま、痛みが止まらなくなった。
職場近くのA歯科に長年通っていた。A医師は丁寧かつ謙虚で、説明を納得させた後に治療にかかった。金属をかぶせると保証書まで発行、全額保険適用である。私はAに絶大な信頼を置き、同僚にも薦めていた。
昨年2月、数年ぶりに訪れた。「磨き過ぎでしょう。力を入れないでください」。
あっさりと言われ、鈍痛が続いたまま同年12月、定年退職を迎えた。
失業中に自宅周辺の歯科をネットで探し、「気さくな女の先生で……」などと書き込みのあるB医院を予約した。これが悲劇の始まりだった。初日にレントゲン、2回目に強引にCTを撮られた。事務員は置かず診察券もない。領収書を請求しても出さない。予約時間を間違え、インプラントへの不安を口にすると「私はそんないいかげんじゃない」と怒りを露わにした。対話よりも過去の撮影画像を大画面に映し悦に入っていた。私は通院3回で逃げ出した。
今年2月、区の無料検診でC歯科を訪れた。3階建て自宅を新築したCは、「大きな機器は引っ越しで処分しちゃってね」。鷹揚に旧式のカメラで撮ると「歯根が化膿してるかな。まぁ大丈夫ですよ。心配なら信頼してるA先生に診てもらったら」と吐き捨てた。
その言葉で私はさらに一年近く放置する。そして先月もう一度C医院に行くと、「だいぶ悪くなってるね。抜かなきゃダメかな。でもウチじゃやらないんだ」。「なら、別の医師を紹介してもらえませんか」。「立場上それはできない。医師会会長を何年もやってるんでね」。「申し訳ないね。あぁ、レントゲン代は要りませんよ」。最悪の展開になった。
連れ合いは、D歯科からE歯科に転医したばかりだった。「E医院は、どう?」。「説明もちゃんとするし、いい感じよ」。もはや迷っている時ではない。私はE歯科を訪れ、これまでの体験を延々と説明した。パノラマを撮った医師は諭すように「やはり抜かなきゃだめですね。その後入れ歯かブリッジか、まあ来年考えましょう」。
穏やかな物言いで笑顔が人懐っこい。
2回目に1時間かけて抜歯・縫合した。摘出された患部は黒ずんでいた。「今日は入浴とアルコールは控えて。薬出しときます」。「ありがとうございます。これでやっと肩の荷が下りました」。
コンビニを数倍する数の歯科医院が、私の地元にはある。厚労省はこれまで診療報酬を低く抑え、「労多くして儲からない」政策を強要してきた。その結果医師は自由診療に向かい、本来高度な技術と慎重さが要求されるインプラントが横行し、トラブルが後を絶たないという。犠牲になるのは患者である。師走から来年にかけて、「今度こそ」の通院が続く。 (隆)