21年前に亡くなった仲間
コラム架橋
21年前、尾崎善子さんが亡くなった。私と善子さんは小学校以来の同級生だった。わたしたちが始めた掛西高闘争が1969年8月31日の抗議集会とデモでわたしを始め多くの仲間が逮捕・退学にされるなかで、ちりぢりになってしまった。その後、善子さんは門前で学校当局を批判するビラを配っていた。2000年6月末に、意を決して電話をしたら、善子さんがいた。小笠なまりの懐かしい声が聞えてきた。30年にもわたる時間の長さはすぐになくなってしまった。うちとけて話すことができた。かなり長く話した。
善子さんが教師をしていると聞いていたので、私がいま、ボランティアでやっている「自主夜間中学」のことを話した。そして、知っている夜間中学の先生の名前を言ったら、何と善子さんもその人を知っていた。これにはビックリしてしまった。
ただ、4月から3カ月、体調を崩して学校を休んでいるが7月からは学校に戻るとも話してくれた。私は盆には小笠に帰るから、その時会おうと約束して電話を切った。そして、小笠に帰った8月13日に電話したが連絡が取れない。8月18日、「お客様の都合で電話を撤去しています。次のところにお電話ください」とコールがあった。何と8月2日に亡くなり、4日に葬儀をすませたという、弟さんの声であった。
今年11月、善子さんの実家を訪ね、弟さんから善子さんについて話を聞いた。1969年の掛川西高闘争を担った後、民間会社に就職し、日本の植民地支配について、考えるために、中国・ドイツ・朝鮮を訪ねた。その後、大学に進学し小学校の教員になり、地元の学校で障がい児教育を担い、支援学級を担任した。障がい児教育に喜びを感じていた。定年後、家を建て、その家の一角に障がい者が集う場を作る計画を立てていた。
2000年1月に、ある小学校は養護学校から養護学級へ転入したいと希望した多動性障害のA君の2週間にわたる「体験入学」を受け入れた。養護学級に在籍していた一人はA君からいじめや暴力による精神的・肉体的な被害を受ける経験を持っていた。そのため在籍児童の保護者は体験入学に反対していた。尾崎さんも保護者の意を受け入れに「体験入学」に反対していた。しかし「A君の両親に、養護学級転入をあきらめさせるための体験入学だから」との町教委等の無責任な判断で「体験入学」は強行された。
心配したとおり、A君の体験入学によって授業が成りたたなくなり、在籍児童と築き上げてきた学級体制も崩された。そして尾崎さんは、うつ病を発症してしまい、自らの命を絶たざるをえなかった。
教員をしていた弟さんは、実家に帰ってきた姉から話を聞き、学校に訴えようとしたが、姉が断ったので、そうはしなかったという。
弟さんは絶対に学校側の対応を許さないと、公務災害を認定するように訴えたが認められず裁判に提訴した。静岡地裁で却下、東京高裁で逆転して訴えが認められ、2009年10月27日 最高裁で高裁判決が認められ勝利した。何と10年近くかかった。「本人の生真面目な性格が原因だ」とする公務災害基金側の主張を覆すのに、善子さんの勤務報告を見つけ出すなど大変な苦労をしたという。そして、教員仲間などの幅広い支援があったから勝てた。二度とこういう悲劇を起こしてほしくないと話してくれた。尾崎善子という素晴らしい人がいたこと、裁判のことを知って欲しい。(滝)