昼休みの光景
コラム「架橋」
朝。始業チャイムと同時に職場の電灯がつけられ、昼休みに一斉に消される。この習慣、サービス労働防止のためかと思いきや、窓口の開閉を来所者に告知するのが目的。パソコンを閉じ、歯磨きセットと弁当箱を手に、私は建物最上階へ向かう。
めざすは「厚生室」である。革靴が乱雑に脱がれた30畳ほどの和室は、温泉旅館の宴会場の風情がある。床の間には部活動用の額縁が無造作に積まれ、「整理整頓」と書かれた紙が褪色した壁に貼られている。
すでに6、7人が弁当を広げている。透明の大きなタッパ、黒い樹脂製の二段型、長方形のアルミ。カップ麺に菓子パンの組み合わせもある。自分か、親かパートナーが作ったか。私は彼らの弁当箱を見渡し中身を想像する。街角には出来合いの食材が溢れているが、自らが手間暇かけた献立ほどうまいものはなかろう。自分の弁当を自分で作る作業に、私は敬意を抱く。それはどこか主体的で自己主張を含んだ行為に思えるからである。
午後の陽が降り注ぐ部屋で、四方の壁を背に中心に向いて座る。イヤホンを両耳に差し込み、膝の上のスマホを凝視し、全員が黙々と箸を動かしている。咀嚼の音すら聞こえない静寂の空間である。その後で午睡が始まる。敷きに2枚、掛けに2枚。一人で4枚の座布団を使うのは、早く到着した特権か。出遅れた者は背広のまま畳に横たわる。
映画監督の山田洋次は「男はつらいよ」のなかで、中小零細企業の労働者の悲哀をも描いた。朝日印刷の従業員たちは、時に寅や博の指令で、仲間のために公私を違わず喜怒哀楽を共にした。博は結婚して満男を産み、マイホームを手にした。不平不満があっても、年功序列と終身雇用が当たり前だった時代の、人生の「平均値」が描かれていた。
終わらないコロナ禍の負の側面の一つは、人々を分断し隔離したことだと私は確信する。テレワークやオンライン会議が活動家にも浸透したが、その物的資源や価値観や必要性を持たない人には無縁である。格差と貧困の深さに孤立と絶望が加わり、自死を求める自暴自棄は、他者を巻き込む犯罪へと傾斜していく。
「感染防止」を大義名分にした高齢者施設や病院での面会禁止措置は、愛する人との別れの形を、悲劇的に変容させている。多死社会の加速と葬送儀礼の簡素化で「死」が形骸化し、残された遺族の心に、深い悲嘆と癒されぬ傷が残る。
昨年11月。大手生命保険会社の調査では、「飲み会は不要」とする意見が回答者の6割を占めたという。「仕事以外では他者との係わりを持たない」と、若い世代が求めているのだろうか。通夜よりも静かな昼休みの無音状態は、時代の平常心を映している。そんな気がしてならない。 (隆)