雪の越後湯沢

コラム「架橋」

 百%を人工雪で賄い、“バブル方式”の名のもとに、人民の生活と五輪を完全に遊離させた北京五輪が終了した。まさに「官僚による官僚のための五輪」を私は1回もテレビで見なかった。しかしニュースやブル新の報道でカーリング女子が準優勝したとかの話題はきっちり耳に入っている。ここでは今回の北京五輪で私の琴線を刺激した2人の女性アナリストを紹介する。
 最初のひとりは、チェコのスケボーの選手。彼女は先回の平昌五輪でスキーとスケボーの両方の種目で金メダルを獲得していた。今回もその二つの競技に挑戦し、スノボーでは金メダルを獲り、スキーではメダルに届かなかったが見事に入賞した。東北の雪国で生まれ育った私は、中学校3年の時担任の先生に「スキーは前に滑るもので、スノボーは横に滑る。そのため身体の使い方が全く違うので、スキーを滑べれるようになるとスノボーは絶対にできない。もし両方できる人が出てくるとすれば、スキーを経験しない若い世代からだ。横に歩くカニ族の中でも前に歩くのは潮まねきだけだ」。
 もう一人は、スキーモーグル級で日本人最上位に輝いた17歳の高校2年生だ。彼女は写真で見る限り、本当にあどけない高校生だ。
 私がモーグルという競技を知ったのは長野五輪だ。登山を再開した私は唐松岳経由で後立山連峰の白馬や五竜に向かう時、五輪の会場であった八方尾根のスキー会場の横を通る。そこで見るモーグルの“こぶ”の上を高校2年生が日本一の速さで滑り下りるという驚きが、この高校生に注目した理由である。
 彼女は小学校の6年間、1学期と2学期は両親のもとから東京・東久留米の小学校に通い、3学期は越後湯沢の誰も知り合いのいない小学校に転校したという。雪が溶け、スキーが滑れなくなると東京に戻ってきたという。彼女の両親は西武とコクドのアイスホッケー選手であったので、ウインタースポーツには多少の理解があったが、それでも湯沢行きに反対し続けたという。それもスケートではなく、両親と関係のないスキーであったのには閉口したという。
 中学校3年生から高校生になると湯沢で、暗くなるまでともに滑っていた仲間が新聞や雑誌で彼女がモーグルの大会で入賞したり優勝する記事を見て、カンパを募り支援を始めた。彼女はそのカンパで北海道や山形などの大きな大会に参加し、北京五輪への道を切り開いたという。「ともだちはすばらしい」とか、「好きこそもののじょうずなれ!」などの古い格言を地で行く経過である。
 国威発揚、民族主義、商業主義というのが五輪の普遍的な政治的特徴だ。こうなるとアスリート個人のがんばりやスポーツの持つ文化的要素も後景に追いやられる。雪国育ちの私が浮かれても、五輪の本質は消えない。(武)
 

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