六〇歳の手習い
コラム「架橋」
1月下旬の日曜日、私は東京・六本木に降り立った。高層ビルと直結したメトロの駅では、それらしき人が足早に改札口に向かっている。「目的地が同じだな」と勘が働く。
やがて視界が開け、民放テレビ局の玄関が見えた。私は左右対象のガラスの右側に入った。人影がないので警備員に聞くと、どうやら左の局側入口が正解らしい。エントランスで職員がプラカードを掲げていた。そういえば20代の頃、近くの檜町公園からデモに参加したか。記憶は曖昧だった。
エレベーターで上がった高層階は、老若男女でごった返していた。広大なフロアを受験番号で区切った試験会場。定刻前の入室は禁止で、人々はロビーで待機した。
景気が低迷し雇用環境が悪化すると、キャリアアップ需要で資格教育産業がはびこる。○○カウンセラー、△△アドバイザーなど、その能力も怪しい専門家が次々とメディアに露出する。少し考えればわかりそうなことを、したり顔で教えている。
私の職場でもスキルアップ研修を奨励している。民間大手の資本と提携し、「受験」を条件に当局が教材費を負担する。昨年6月。私はある資格の取得をめざした。特養では、病変に気がつかれず危篤状態に陥った母が、私のとっさの判断で救急搬送され、一命を取りとめた時期だった。
やがて分厚いテキストと問題集が届いた。保険、年金、税金、相続、不動産、金融、為替など出題範囲は多岐にわたる上に、無関心どころか嫌悪している分野ばかりだ。学科試験では解答を見直す余裕があったが、実技試験では時間が足りず、終盤はマークシートをランダムに塗りつぶした。週末の図書館での勉強は、試験日1カ月前に始めた。私は不合格を確信していた。
金融資本主義を容認し、それに追随する手練手管を会得するような国家資格である。ある同志は酒席で「それ受けるの、まずいんじゃないすか」と牽制したが、受験辞退は違約になる。衰弱する母と面会ができず、勉強も進まず、私のストレスは頂点に達しようとしていた。
入院先の病院の支払いは現金で行い、職員と激しく交渉し治療経過の説明を求めた。その甲斐あってか高齢の主治医に代わり、某大医科研出身で非常勤の若い医師が、過去の無作為を謙虚に謝罪。母の容態悪化を3月初頭、家族に告げた。以後私は、葬儀社や改葬手続きの情報収集に追われた。
40年前の父の急逝から母は互助会に加入、わずかな積立残金があった。営業担当の女性が式の流れを説くホールの窓口。ウエブサイトでの合否発表が始まった。私はスマホからログインし、当該画面を呼び出した。
「肩の荷がひとつだけ、下りましたよ」。マスクのまま、女性に打ち明けた。「60歳の手習い」は、この瞬間に幕を降ろした。(隆)