さまざまな出来事の連休
コラム「架橋」
今年の連休ほど、いろんなことに遭遇したことはなかった。4月29日、昭和天皇の戦争責任を追及する「反昭和の日」。小雨の降る冷たい日のデモ。いつもより、右翼の妨害も少なかったような気がした。
4月30日、東京駒込で沖縄の物産を販売し、音楽やさまざまなテーマを扱った講演会・映画会を催している東京琉球館がある。そこで、「上映とお話の会 戦後史の謎 検証・三鷹事件」があった。NHK/ETV特集①②1997年5月28日・29日放映と詩人の石川逸子さんの話「三鷹事件 無実の死刑囚竹内景助の詩と無念」があった。
1949年7月15日、三鷹駅で無人の電車が暴走し、6人が死亡、20人近くが重軽傷を負った。当時、ドッジ・ラインの一つの柱として国鉄9万5000人の首切りが予定されて、国労は強く反対していた。警察は日本共産党による組織的犯行として、9人の共産党員と非党員であった竹内さんを電車転覆致死罪で起訴した。1審判決は単独犯行として、竹内さんのみを無期懲役、他の人たちを事件当日別の場所での会議に参加していたことを認め無罪とした。そして、東京高裁は事実調べをすることなく、竹内さんに死刑判決、他の被告たちに無罪を言い渡した。最高裁も事実調べをすることなく、判事15人中8対7で上告を棄却し死刑が確定した。
その後、竹内さんは再審を求め、1966年に東京高裁樋口勝裁判長は再審のための予備調査に入った。
残念ながら、1967年1月脳腫瘍のために竹内さんは亡くなった。2019年7月31日、死刑確定後に獄死した竹内景助元死刑囚の長男が申し立てた第2次再審請求審で、東京高裁は再審開始を認めない決定を下した。2022年3月1日異議審が認められず弁護団は上告した。
竹内さんが犯行を認める自白をしてしまったことを、仲間を救おうとする「義侠心」に富んだ竹内さんの生い立ちから石川逸子さんは解き明かしていった。何としても竹内さんの無念を晴らさなければと思った。
5月1日、日比谷メーデーで「かけはし」号外チラシまき。メーデーのサブスローガン「ロシア軍によるウクライナ軍事侵攻糾弾、ウクライナ軍による武力での対抗ではなく対話による外交解決を訴え全世界の戦争のない社会」というようなものだと友人から連絡があった。友人は「ウクライナ軍の武力での対抗ではなく」ということに、「腹がたっている。どうしてこういう文言を入れるのか。ゲバ棒を半世紀前には持っていた連中が」と。ウクライナ人民の武力抵抗をやめろというのはロシアの侵略に降伏せよということ。信じられない話だ。
5月2日、辺野古実による月例防衛省申し入れ行動。冷たい雨も降ったりする悪天候にもかかわらず80人の参加。5月3日、憲法記念日に1万5千人。元東京電力社員の人といっしょになり、当時の火力発電所の労働現場の様子を聞かせてもらった。東電が原発に手をださなければよかったのにという言葉が心に残った。 (滝)