復帰50年

コラム「架橋」

 沖縄の本土復帰から50年を迎えた。何が変わったのか……。基地の島は沖縄本島だけでなく、宮古、石垣、与那国まで拡大されている。全国の米軍基地の70 ・3%が沖縄に集中している(復帰時は58・7%)。そして一人当たりの所得は全国最低である。何が変わったのだろうか。
 復帰50年、5月15日『毎日新聞』に掲載された投書をいくつか紹介したい。
 「沖縄を訪れたのは復帰の3年ほど前。…現地ガイドさんの第一声は『どこから来たのか聞かれたら、決して「日本から」とは答えないで、「内地」もしくは「○○県からです」と答えてください。また米軍基地にはカメラを向けないように』だった。今も耳に残る言葉に、沖縄の置かれた現状を悟った」(72歳・女性)
 「1970年に大学生だった私は、集会で『沖縄を返せ』を歌っていた。…この歌は『沖縄は日本のもの』という一方的で上から目線のものだったと反省している。やがて『沖縄を返せ、沖縄に返せ』と歌うようになった。…沖縄は何度であろうと自分たちの島の在り方を自ら決めればよい。…どんな形でも支持する。『沖縄は沖縄に返せ』である」(71歳・男性)
 「甲子園球場…沖縄の高校が出場した。相手側のアルプス席に座っていると、整列などの勝手がわからず、まごまごしている選手に向かって隣の男がヤジを飛ばした。『英語で言わんと分からんのか』。私は意味が分からなかったが、さざ波のように嘲笑が広がったことをはっきり覚えている。私はその後、70年安保の学生時代を経験し、今は確信している。あの頃の我々の沖縄に対する内なる差別意識は今でも残っていて、基地問題を押し付けている」(71歳・男性)
 それぞれ年齢から、大学入学が1968~69年といったところだろうか。安保・沖縄問題などで当時、心が揺さぶられたのであろうと思われる世代だ。しかし沖縄の本土復帰の同年には、あさま山荘事件と連合赤軍の陰惨な仲間殺し事件があり、日本学生運動と新左翼運動の後退が一気に加速する。その後は知っての通り、暴力団の抗争のような内ゲバ殺人が日常化していく。
 50年、日本の左翼や革新と言われた勢力は、後退に次ぐ後退だった。ソ連邦は崩壊し、中国は共産党独裁化で完全に資本主義化してしまった。マルクス主義も社会主義革命も夢のまた夢だったのだろうか。しかし世界は戦争と貧困・飢餓、格差・不平等、差別と抑圧がまん延し、拡大している。そしてそこに気候危機とコロナ危機が襲いかかっている。この現実からの逃避は、資本主義との「心中」である。それが嫌なのであれば、世界革命のためにがんばりぬくしかないのである。
 50年、基地への怒り、本土への不信、そして平和の想いを受け継ぎながら、沖縄の人々はがんばり続けてきたと思う。このがんばりに応えなければ、日本を変えることはできない。秋風が吹き始めるころ、3年ぶりの沖縄行を考えている。(星)

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