わが青春つきるとも

コラム架橋

 5月中旬の土曜日の朝、アメ横の店舗に注文していた品物が届いたとの連絡を受け、上京するため駅に向かった。時間調整のため約4キロの道のりを徒歩で1時間弱。しかし、その店舗は午前11時開店なので、ちょうどよい電車までまだ相当間がある。
 そこで駅構内にあるタリーズでスマホを見ながら時間をつぶしていた際、突然24歳の若さで特高の拷問と同志の転向により精神を病み、収容された松澤病院で肺炎にかかり無念の死を遂げた日本共産党員伊藤千代子の足跡を追った映画「わが青春つきるとも―伊藤千代子の生涯」(監督:桂壮三郎)が、東中野にあるミニシアター「ポレポレ東中野」で上映していることを思い出した。この映画が全国で上映していることは知っていたが、残念なことにボクが住む保守的な地方都市では、まったくその上映予定はない。そのためどこかで機会があればぜひ観てみたいと考えていた矢先だった。
 すぐさまネットで上映時間を調べると正午12時からとある。前述した通りアメ横の店舗の開店時間にあわせて上野に着けばいいと思っていたので、果たして間に合うかという不安が頭をよぎった。秋葉原から東中野までは約40分。しかし、その場所がよくわからない。また、ネットでその場所調べてみると駅から徒歩3分の距離。これなら大丈夫だと安堵し、先に映画を観ることに予定を変更した。
この映画には「増補新版 時代の証言者 伊藤千代子」(藤田廣登/学習の友社)による原作と、映画化にあわせて出版された「漫画 伊藤千代子の青春」(ワタナべ・コウ/新日本出版社)の2冊があるが、前著に元都立松澤病院院長で日本精神衛生会会長をつとめた秋元波留夫氏が原作の序文(二○○五年初版)に寄せた文章の中で、「私は昭和初期、一五年戦争への暴徒に不可欠な役割を果たした治安維持法が『拘禁精神病』と呼ばれる精神障害の原因になる悪法であり、この事実を明らかにすることが当時を知る精神科医としての自分の務めである」と記しているのが印象的だった。
 この拘禁精神病は、治安維持法が廃止された現在も、拘置所や刑務所での長期拘禁の中でしばしば発症していることからも決して過去の病ではないのだ。三里塚闘争の3・26管制塔占拠闘争で原勲さんが逮捕され拘禁性反応からくるノイローゼの発作により、保釈後自殺したことは記憶に新しい。
 本題に戻るが伊藤千代子は、1905年7月長野県諏訪郡湖南村(現諏訪市)に生まれ、諏訪高女、仙台・尚絅女学校高等科英文予科を経て東京女子大学英語専攻部2年に編入。学内の社会科学研究会結成に参加し社会主義者の一歩を踏み出した。故郷諏訪で発生した製糸女工たちによるストライキを支援し、貧困と女性の不平等に大きな声をあげ続け、やがて日本共産党に入党。
 困難な活動の中で同志と結婚するが、第1回普通選挙に向けた労農党の資金確保のために、やがて転向する夫に乞われて、祖父母から届いた学費を断腸の思いで差し出す様は、いくら党のためといっても観ていて腹ただしい。まるで女衒のなせる技である。ましてその資金が、プロレタリア作家小林多喜二が支援し、その様を「東倶知安行」で著した北海道から出馬する山本懸蔵だったことからも後味が悪かった。
 日本共産党を初めとする社会主義者の一斉検挙が行われた1928年3月15日、赤旗の原稿を滝野川に密かに設けられた地下印刷所に届けに行った際、千代子は貼り込んでいた特高に逮捕された。その原稿は、千代子の機転により滝野川署のトイレに破棄。党の機密を、命を賭して守り、厳しい尋問と拷問を受けても一切の供述を拒否し続け、検事の甘言にも動じなかった。
 しかし同志と信じていた夫や指導部の解党主義と転向を知らされた千代子は、未決のまま肉体、精神的に追い詰められ、やがて松澤病院に収容され、1929年9月、不屈の精神のまま急性肺炎により病死する。
 映画の中でのハイライトは、獄中にいる女性同志とともに秘密裏に申し合わせロシアの革命記念日に、「赤旗のうた」を歌う場面だが、ウクライナ侵略にみるように革命の祖国が今や存在しないことを改めて気づかされた映画でもあった。
 「高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき」。千代子の恩師で歌人の土屋文明が残した歌である。合掌。    (雨)

【おわび】 コラム「架橋」4月20日号と6月8日号と同じ原稿「新型コロナウイルス」を使いました。おわびし、改めて今号に雨さんの新しいものを掲載します。

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