300年の歴史に幕
コラム架橋
父が9年前に亡くなり、実家に母が一人で住んでいた。介護保険を使って、買い物や料理、デイサービス、病院通いなどの生活だった。そして私が毎月1回帰り、支援をしてきた。母は家の周りの畑に花や野菜を育て、雑草取りの毎日だった。そんな母が4年前に朝方、家の勝手口で転び、夕食を持って来てくれる人が見つけるまで動けないでいた。足・腰も弱り一人暮らしは無理ということでグループホームに入ることにした。
私の実家は戦前まで「種や」だった。尾張まで種を仕入れ地元で手広く売り歩いた。戦後は化学肥料の普及や農地解放などがあり、種やはやめた。その後、温室メロンを始めた。高度成長の波にのり、高級果物が売れる時代になり、1軒で12棟の温室をやった。父が70歳の時、病気になり、メロン栽培は止めた。父は趣味人で、家の周りにたくさんの種類の樹木や花を植えた。鳥も好きで孔雀やほろほろ鳥、鶯、闘鶏などを飼ったり、鯉などをいけすで飼った。家の周りは小さな「森」のようになった。
父が80歳の時、突然病気になった。樹木の剪定をしないとあっという間に大きくなってしまう。畑は雑草が生い茂った。私が月1回帰り、草刈りしてもつぎの月には同じぐらい雑草が生えてくる。
実家を継ぐ人がいないので、実家の処分を考えて、知り合いの不動産屋に頼んでいたが何の連絡もないまま時間が過ぎた。田舎であること、浜岡原発から10キロメートルということもあり、不動産取引が少ないので仕方がないと思っていた。
今年の2月、何気なく、不動産屋のサイトで実家の土地の値段を調べた。そうすると、すぐに隣町の不動産屋から連絡が入った。4000㎡もある土地をどう売りにだすか。宅地と畑・田。さまざまな規制があって、そう簡単に売れないことがわかった。1000㎡を超えると調整地を作らないとだめとか、3年経たないと周りの土地を売ることが出来ないなど。
家屋の解体費用、測量費など高額の資金がかかる。数区画売れないとその費用が捻出できない。売れるかどうか、買い手がつくかどうかの博打のようなものだ。そのままにしても仕方がないので、売る方にかけた。
しかし、それからがたいへんだった。家財などの処分だ。結局私ひとりで、毎週末帰り、本や衣類などリサイクルできるものはリサイクルセンターに運んだ。出来ないものは解体業者へと丸投げと決めた。
お宝があるのではないかと声をかけられたがそんな物は一切なかった。西の蔵にあった江戸末期の刀はとうに人にくれてなくなっていた。東の蔵にはなぜか未使用の大きな金庫があったが、開錠のメモがどこにあるのか分からず、開けることは出来なかった。
唯一、父が残した2mもある大凧・飛行機凧を中華料理屋さんなどが引き取ってくれた。位牌に享保14(1729)年というご先祖様がいる。およそ300年前にこの地に住みついた。安政大地震(1855年)で母屋を建て直し住んだ。「ご先祖様、長い間ありがとうございました」とお礼を言って二度と見ることのない実家を後にした。(滝)