「駅弁と手作り弁当」

コラム架橋

 今、「手作り弁当」が静かなブームとなっているらしい。このブームを押し広げているのは、NHKの番組「サラメシ」だという。「サラメシ」が高視聴率稼ぐのは、これまでのサラリーマンの悲愴な昼食ではなく、ほのぼのとした雰囲気を漂わせるのがいいのだという。「サラメシ」が始まるとチャンネルを他の番組にまわす人がほとんどいないという。
 コロナ禍の一方で「手作り弁当」を押し上げているが、他方では同じ弁当でも「駅弁」には厳しい試練を課しているという。とりわけ長い間人々に親しまれた各地の名物弁当が姿を消し始め、「駅弁」が軒並みコンビニ弁当化しているのだという。この現象は「私でもわかる」。コロナのご時勢、旅行者は減り、車窓を眺めて駅弁という人はほとんどいない。
 私が小学生であった50年も前、弁当は日常であったが、駅弁というのは生活の中には存在しなかった。生活の中に存在する人は限られたごく一部の人だけであった。私の中に駅弁がどのように飛び込んできたか紹介しよう。
 私がまだ小学生であった半世紀前、毎日弁当を持って学校に通った。給食が始まったのが5年生の時だから、それまでの4年間は弁当であった。その頃、弁当のおかずがない日は、母親は2個のおにぎりを持たせてくれた。1個の具は梅干しで1個は塩むすび。時には塩むすびは、味噌をぬって焼いてあった。私は塩むすびより味噌の方が好きであったので、味噌むすびの日は「やった」と思ったことを今でも覚えている。
 弁当がもうひとつのドラマを生み出すのは、寒い冬の日であった。冬になると冷たい弁当は気の毒だという配慮から、ストーブの横に金網を置いて弁当を4時間目に温めた。だが弁当が温まるとともに、おかずも温まるため「納豆」や「たくあん」の入っている弁当があきらかになり、臭いが部屋中に充満し、教室中に広がった。「納豆・たくあん」の弁当を持って来た人間は、真っ赤になり部屋から出て弁当を食べる羽目になった。秋田では暮れの12月になると誰の弁当のおかずもハタハタであったので、この時ばかりは教室が静かであった。
 私のこうした弁当時代、駅弁なるものが私の中に飛び込んできたのは、小学校3年の時であった。ある日慰安旅行から帰ってきた父は、「お土産だ」と言って丸い器をバッグの中から出した。それが「峠の釜めし」の空になった器であった。この器はその後長い間、私たち兄弟のビー玉入れになっていたのですこぶる鮮明に記憶している。
 父の慰安旅行は金沢と能登半島で、出かける時は秋田から金沢まで羽越線、帰りは金沢から東京に出て夜行列車で帰ってきたのだ。これ以来、「峠の釜めし」は私にとって駅弁の代名詞となり、地図帳を開き軽井沢や横川という地名を懸命に探した記憶がある。
 そのせいか、東京のデモや集会に参加した時、「峠の釜めし」に似た東北本線の「黒磯の釜めし」を買うようになった。釜めしの上に乗った具を半分は酒の肴にした。弁当ひとつで2個分の役割を果たしてくれた。父と話したことはないが、父も私と同じように半分を酒の肴にしたんだと今は考える。
 駅弁が本格的に私の中に入ってきたのは、中学3年の修学旅行で北海道に行った時だ。函館で船から降り、朝めしとして渡されたのが、「森駅のいかめし」であり、次の昼めしとして渡されたのが「長万部のかにめし」であつた。そのうまさを今でも覚えているのは、いかにカルチャーショックが大きかったかを裏付けている。今でも「駅弁」という響きはここち良い。はやくコロナが終ることを祈る。 (武)