宗教二世の呪縛

コラム架橋

 このごろ「宗教二世」という言葉をよく見聞きする。何でも親が自分の信仰する宗教を我が子に信じることを求め、信仰を許容した結果誕生した子どもたちを指す形容だという。それは自らの意思とは関係がない強要であったとしても入信、または親の影響下に置かれれば宗教二世と定義されるらしい。そういうボクも宗教二世。両親がカトリックで、何もわからぬまま幼児洗礼を受けたのでまったくその意識はないのが幸いだ。また、ボクの娘たち3人も幼児洗礼だから宗教三世ともいえる。ただ、誰も信仰心がないので教会へも献金もしていないのが現実である。
 ここでいう宗教二世は、主に新興宗教に多い。例えば韓国を出自とし、霊感商法や合同結婚式が社会問題となり今でも世間を騒がす「世界基督教統一神霊協会(旧統一教会、現世界平和統一家庭連合、以下、旧統一教会)」などなど。地下鉄サリン事件を引き起こしたカルト集団「オウム真理教」もその類いだろう。
 日本では、日本国憲法第20条で「信教の自由」が認められている。そこには、信仰の自由、宗教団体の結社の権利も認められ宗教活動は自由だ。それは、戦前の大日本帝国憲法下でも「信教の自由」は掲げられていたが、天皇制の下では、国家神道以外の宗教それ自体が完全に保証されたものでない。あくまで天皇制に従順な場合のみ認められていた限定的なものであったという反省から、戦後内心の自由を尊重し、民主主義の下、定められたといってもよい。
 戦前、治安維持法を根拠に内務省警保局の配下、特別高等警察によって引き起こされた宗教弾圧は、共産主義思想とともに苛烈を極めた。神殿をダイナマイトで破壊した大本教弾圧事件や国家神道に反するとして敵視されたキリスト教各派、また、現在ある創価学会の前身である創価教育学会幹部で、不敬罪容疑で検挙され非転向のまま獄死した牧口常三朗の場合など枚挙に暇がなかろう。
 閑話休題。今夏7月8日正午近くに発生した参議院選挙応援演説中の安倍元総理を狙った銃撃事件は衝撃的だった。さらに驚いたのは、その実行犯が、長年にわたり自民党と癒着してきた統一教会の宗教二世による確信的な銃撃だったということである。手製の銃により銃撃された安倍元総理は、その場で心肺停止状態に陥り、17時3分に死亡が確認発表されるまで情報は錯綜。海外のメディアが、宗教二世が供述したという宗教団体をいち早く旧統一教会と報じたのに対し、国内メディアは「特定の宗教団体」と口を濁し続けた。自民党への配慮であろうか。
 ここで実行犯の宗教二世は、母親が統一教会に入信し、多額な献金による自己破産などが原因で家庭が崩壊。旧統一教会に積年の恨みをつのらせその関係者を成敗しなくてはと思い立ったという。偶然にもその的になったのが、旧統一教会=国際勝共連合と深い関わりがある元総理大臣岸信介を祖父に持つ安倍晋三だとはまさに因果応報。安倍もまた旧統一教会の集会にビデオメッセージなどを贈り、選挙支援を求めるなどその関係はズブズブだった。さらにこれらの関係は、嫌韓愛国を標榜して止まない自民党全体の屋台骨を揺るがす事態にまで発展している。
 参院選の勝利に酔いしれ、安倍の国葬をいち早く閣議決定した岸田総理による風の読み違い。そして指名閣僚と旧統一教会との闇、森元総理を頂点とする東京オリンピック汚職事件など世論の逆風に曝され支持率は急降下、50%を割るにいたった。
 もちろん宗教二世の銃撃事件は許されるものではない。しかし、彼の銃撃により自民党の長期政権により隠蔽され続けてきたさまざまな癒着の闇を、白日の下に曝け出す機会になったのは明らかである。
国葬を 人民法廷へ 変えざしと思う   (雨)

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