只見線の上下分離方式のなぞ

コラム架橋

 10月1日、11年ぶりに秘境路線として名高い只見線(新潟県魚沼市~福島県会津若松市)が全面開通した。2011年夏の豪雨で鉄橋が流されたりした只見線は不通となり、JRは廃線の一番手に取り上げてきた。とくに一番被害の大きかった会津川口と只見の区間はJRは復興どころか工事の手も付けなかった。それが突然話し合いが合意し全面開通に至ったのである。
 JRが話し合いに提出した文書によると只見線の1年間の経費は22億円であり、会津川口~只見間を中心とする修理・補修に毎年3億円もかかる。他方運賃を中心とする収入は3億円にもみたない。このように只見線は年間20億円を超す赤字線なのだ。その上北側に阿賀野川に沿って新潟県と福島県を結ぶ磐越西線が走っている。JRは将来を磐越西線にかけ、只見線を切り捨てたいのである。
 他方、只見川沿いを走る道路は、豪雪地帯のため、国も県も冬になると1本も一部も除雪をしない。そのため各集落はそれぞれ山の中に孤立するのである。また10を超す高校も、公立病院も誰も行けなくなるのだ。各自治体の崩壊である。
 これを回避するために、当該の17自治体が20億円を超す赤字も、3億円を超す修理費も負担するという和解案に乗ったのである。各自治体が厳しくとも生き延びるために和解したのである。解決案は悪名高い「鉄道の上下分離方式」という方式で、レールをJRが、客車を自治体がそれぞれ責任を持つのであり、発生する赤字も自治体が背負うというものである。マスコミと国交省は鉄道延命の新しいページが聞かれたと讃美するが、自民党の呼びかけに応じて新幹線を建設するJRや自治体が今後続くと考えるのがおかしい。今回の和解も原発の事故で行き詰っている東電と福島県を救済するために政府が裏から手をまわしたと福島の地元紙は暴露している。
 私が只見線に注目するのは、不通になる直前に乗車したという責任感と只見線への思い入れである。私たちが只見線を選んだのは秘境だからでも風光明媚だからでもなく、河井継之助が生きた「峠」の世界に行ってみようと誰かが叫んだからである。
 私たちは2011年1月のある日、只見線に乗るために東京を昼に出発した。しかし午後4時に始発駅の小出に着くと会津行の列車はなく、ガイドブックは1日3便と書いているが、駅員に聞くと冬は1日2便しか走っていないという。その日は出発をあきらめ近くの温泉に泊まり、翌日午前の便で出発した。只見線は越後平野を走っているうちは、車窓から越後三山や街中も見ることができるが県境を越えると左手の車窓にたまに川面が見えるくらいで集落も見えず、ただただ雪の中である。乗り降りするのも高校生がほとんどで、唯一老人夫婦が只見で河井継之助記念館に行くというのに会っただけである。この夫婦は只見線に乗ったのが3回目だと言っていた。冬の只見線は雪の中を列車が走るだけでほとんどが無人駅。ともかく電源開発の発電所とダムだけが目立つ路線であった。
 私たちはその日の夕方、会津市内の西のはずれにある柳津駅で下車し、温泉民宿に泊まった。只見川も、戦後の黒部や梓川、大井川と同じように戦後の巨大開発なのだ。大井川のリニアと同様、原発の事故で福島県の電力とその構造が危機に突入しているのである。異常気象は全国のこうした地域の矛盾を再び押し広げ始めたといえるのかもしれない。 (武)

前の記事

「開いたパンドラの箱に?」