国際旅団に参加したひとりの日本人
コラム架橋
君たちは遙か遠くからやってきた。国境を越えて歌う君たちの血には、距離などは問題でない。不可避な死は、いつの日か君たちの名を呼ぶだろう。どこで、どの町で、どの戦場でかは誰にも分かりはしない。
これは、スペインの詩人ラファエル・アルベティが書いた「国際旅団に捧げる」という一編の詩だ。「国際旅団」とは、1936年から1939年にかけてスペインの共和国人民戦線政府と、スペイン陸軍のフランシスコ・フランコを中心とした軍部によるクーデターに抗して始まった内戦に参加した外国人義勇兵を指す。部隊は世界55カ国から約6万人の男女が参加したとされ、その戦死者は1万人以上といわれている。
義勇兵の多くは労働者を中心とした共産党員であり、反ファシスト打倒を旗印に首都マドリード包囲線などスペイン全土で激烈な戦闘を繰り広げた。その義勇兵の中にひとりの日本人がいたことを知る人は少ないだろう。
その名前はジャック白井。1900年ごろ函館で生まれ、修道院付属孤児院で育ったのち船乗りのコックとなり1929年ニューヨークで脱船(密入国)、大恐慌下で発生した失業者のデモに参加したという。しかし、これらは白井を知るごく少数の人々から得られた証言で、正確な出生さえも明らかになっていない。ただここで言えるのは、彼は失業者があふれるニューヨークでコック、そしてパン職人として生計を立て、仕事が終わるとアメリカ共産党結党に尽力した片山潜らが活動の拠点としていた「日本人労働者クラブ」に出入りをしていたことである。 どういう経緯で彼がアメリカ共産党に入党したかは定かではない。そんな中、1936年に始まった国際旅団の義勇兵募集事務所に白井は志願し、軍事教練などを受け、同年12月フランスに向かうノルマンディ号に乗船する。もちろん正式な出国ではない。アメリカに密入国した彼が、正式なパスポートを持っているはずはなかろう。川成洋氏が著したルポ『ジャック白井と国際旅団』によれば、「ニューヨーク領事館経由のスペインのパスポートではないか」と述べている。軍服などの基本装備も、組織から支給された50ドルで軍の払い下げ品を調達したとも書かれており、緊迫したスペイン内戦は待ったなしの情勢であったことがうかがえる。
また、本書の中で白井は「反ファシズム闘争に強靱な意志を表明していた」との証言も記されており彼の琴線に触れるようで興味深い。
ともかく白井はアメリカ人による「エイブラハム・リンカーン大隊」96人の炊事兵としてフランスからバスでピレネー山脈を越えた。もうそこは戦場だったが、多くのスペイン市民の歓迎を受けワイン攻めにあったという。
共和国人民戦線政府に国際旅団が参加したように、フランコ側もドイツやイタリアに軍事支援を要請し、この内戦はさながら第二次世界大戦の前哨戦であり、近代兵器の実験場であった。
1937年7月11日、白井はマドリード近郊のブルネテの戦いで頸部を撃ち抜かれ戦死した。それは炊事兵としての戦死ではなく、機関銃手としての戦死だった。彼は炊事兵の身分に疎外感を持っていたという。享年37歳。ファシズム打倒に捧げた、ただひとりの日本人であった。
現在、ロシアによるウクライナ侵略により多くの市民、兵士が犠牲になっている。ここでも全世界から義勇兵としてウクライナへ向かう若者たちがいる。しかし、これらの行為は「私戦」行為として認められていない。なぜ、法を侵しても義勇兵を志願するのだろうか。そこには、時代と思想こそ異なるがジャック白井が持った熱い信念があるような気がする。
ロシアと停戦合意を声だかに主張する人たちもいるが、それはロシアがクリミアや武力併合した4州から撤退した後になされるべきものであろう。ウクライナをネオナチと呼称するロシアこそがファシズム国家である。 (雨)