当世納骨事情 Ⅱ
コラム架橋
母の他界について私は、今年6月に本欄で書いた。死亡から半年経ったこの10月、1つの大きな区切りがついた。40余年の悲願であった「改葬」が終わったのである。
4人姉兄妹の3番目に生まれた母の実家は、東京K区にあった。祖父母は新潟の小さな漁村の出身で、祖父が3男のため夫婦で上京した。祖父も伯父も国鉄に勤めていた。
川沿いの長屋から大通りを渡った閑静な住宅街に、「真宗大谷派」の小さな寺はあった。寺から国鉄駅を挟んだ高台の墓地に、祖父母と伯父は眠っている。昭和の有名な巨大団地群は取り壊され、私立大学とモダンなUR住宅に変貌を遂げている。
伯父が建てた御影石の墓に、父と死産した私の姉が、半世紀以上も仮埋葬されていた。私は母の容態が深刻になった昨年夏から、寺に「二体の遺骨を取り出したい」旨を伝えていた。住職は至って協力的で、改葬に伴う手続きのすべてをこの夏、私一人で処理することができた。
9月初頭。冷たい雨の降る中、石材業者がついに二つの骨壺を取り出した。読経すなわち「閉眼供養」はわずか数分で終わり、「洗骨業者」が墓前から遺骨を持ち帰った。
8月末。迷った末にようやく新しい墓を決め、使用権契約を結んだ。冥加金・護持費を支払うと「銘板作成」、「戒名授与」、「写真取込み」等の作業が続く。それらすべてが終わる頃合いで納骨日を決めた。実弟の勤務シフトを優先し、義弟ら計5人が集まった。
4月の葬式では、会館業者が手配した「浄土真宗」の僧侶が経をあげたが、高額の布施の割に評判が良くなかった。この轍を踏むまいと私は墓苑側に慎重に念を押していた。選んだ「参拝ブース」は人気があり、私の購入直後に完売したという。葬儀・火葬・仏具・墓所業界は狭い世界で、仏具店の店長は私に界隈の裏話を明かしてくれた。現金を受け取る際、彼は必ず合掌した。寺院のナンバー2は、1時間をかけて納骨式を取り仕切った。
葬送の形は時代とともに変化する。都内納骨堂は販売競争がし烈で、莫大な耐震建築費を回収するため、期間限定の値下げや商品券、紹介謝礼等、あの手この手で客を呼び込んでいる。人々の宗教感、死生観の狭間に、資本主義の論理が首をもたげている。
「買ってしまえば、もう安心」ではない。10月29日付東京新聞は、札幌の宗教法人が破たんし、経営していた納骨堂が競売にかけられたと報じた。落札した不動産業者は事業を引き継がず、堂を閉鎖するという。同じことが東京に起こらないとは、誰も断言できない。
とはいえ、両親と姉は長い時を超え、ようやく一つの厨子に収まった。新墓所は自宅から半時間。肩にのしかかった大きな荷物を、私はなんとか降ろすことができた。
(隆)