医学医療系差別用語
コラム「架橋」
先日、新聞を整理していると、ある見出しに目が留まった。東京新聞2月14日朝刊「暮らし」面。「『糖尿病』名前変える?」――患者の声を受け、関係者が病名の変更を検討しているという。
キーワードは「負のイメージ払拭」。「甘いものの食べ過ぎ」、「生活習慣の乱れ」。そんな先入観で「誤った認識が偏見を助長し、差別を生んでいる」と「日本糖尿病協会」は指摘する。元々は患者の尿に糖が混じることから名付けられた。ところが実際には、尿に糖が出ない患者も多いという。
病名の「言い換え」はすでに進んでいる。「兎唇」は「口唇裂」、「牛眼」は「先天性緑内障」、「獅子鼻」は「前向きの鼻孔」。人間の身体部位を動物に例えるとは、たしかに差別的で不快である。ちなみに私が30年来通院している眼科病院では、「緑内障」を「ミドリ」、「白内障」を「シロ」と看護師や介護士らが呼んだ。私はどちらも罹患した。
「痴呆症」が「認知症」に代わって久しいが、私の周囲でも「ニンチがある」などの侮蔑的な言い方が氾濫している。前職の後輩は、闘病中の自分の親に対しても、そう言っていた。自身の発案ではあるまい。デイサービスの職員を真似たのだろう。利用者は入院や病棟で未知の「専門性」に触れると、使われる呼称を無条件に受け入れてしまう。
保育園や精神病院での虐待が後を絶たない。報道される職員の横柄な態度や言葉に義憤を抱く。人手不足を口実に人権がないがしろにされていないか。略語や業界用語は適正に使われているか。記事にあるように、名称を変えても差別はなくならない。病気や症状に対する怠慢、人々の無知や無関心こそが、患者を見下す優越につながる。「言葉狩り」という表現からは、差別者の皮肉や揶揄や、狼狽抵抗の心理が見え隠れする。だが差別や偏見を助長する言葉は、狩られるべきである。
他方で、インタビューに登場する田中牧郎・明大専任教授の「病名は考え抜かれている」との発言に、救われる思いがした。封建的で閉鎖的な医学医療界が、学会や患者からの訴えで議論を始めた。軽薄で思慮分別のない世相の昨今。「言い換える際は、意識的に知恵を絞って行なう必要があり、『ら抜き言葉』のように日常の中で自然に変わっていくものではない」。まったく同感だ。病名はとても特殊な存在で、新語で嫌悪が消えても、新米医師が医学的な知見を見誤っては元も子もない。現場では混乱も引き起こすだろう。
用語が変わったら「なぜ変わったのか」と、謙虚に思いを巡らせることだ。変更に不都合があれば、十分な検証の上でより良い表現を創造すればいい。まずは人権ありき。言葉はその人の品性や人格を表し、物事の本質を映すものなのだ。 (隆)