かつての友の話
コラム「架橋」
かつての仲間A君からきた20数年前の住所変更のハガキを見つけた。会いたいと年賀はがきを出した。すると正月になって、A君の連れ合いさんから「Aは3年前の1月3日にガンで亡くなった」と連絡があった。「ガーン」、言葉もでなかった。工場で最も気が合い、信頼もしていたかつての同志であった。
私は1969年高校闘争で退学処分を受け、撤回闘争で逮捕された。その後、東京に出てきて機械製作所に入った。A君は一つ年下、同期はみんな地域の工業高校出身だった。
組合は総評左派の全国金属労働組合。執行部と青年部の多数派は共産党系。私は大阪の田中機械の闘争に注目しながら、執行部より「左」をめざした。ベトナム反戦や韓国民主化闘争連帯、ペトリカメラ争議支援などを訴えていた。
しかし、職場で選挙に立候補すれば一割程度しか得票できなかった。それでも組合民主主義があったので、全員集会の時、必ず発言を繰り返した。すると共産党系が私を仲間はずれにしようと画策した。同期の仲間たちは逆に私と仲良くなった。緩やかな仲間たちの集り「30日の会」を作った。
ストに入る前に、安全確認運動と称して、仕事をサボタージュする戦術が組まれた。組立工のAらは職場で仕事をしている人を見つけると、安全確認として仕事を止めさせた。経営者といっても300人のうち数人しかいないのだ。入ったことのない社長室に押しかけ談判した。恐いもの知らずだ。誰が職場の主人公なのかを自覚させられる時だった。組合の力は絶大だった。
新しく入った労働者のほとんどが組立て職場なので、Aらの影響が強く表れた。山好きの若者によって登山が組織され、おそろいのシャツを用意した。組合活動だけでなく、遊びや飲み会などを通してより強く仲間意識が形成された。
一番の悩みはどう彼らに共産主義思想を理解してもらうかだ。アジア青年集会などに誘っても来てくれない。学習会を組織した。たまたま工場の近くに新時代社専従者が住むアパートがありそこを借りた。講師は北大出身の学者タイプのメンバーに頼んだ。
数年で青年部・職場委員の多数派までこぎつけた。1974年のオイルショックなどによって、大企業が中小の仕事も取ってしまった。M製作所もその波をかぶり、従業員の三分の二を整理するという大合理化案が出された。執行部は話し合い解決をいち早く打ち出し、青年部など全機関を凍結して、反対運動を抑え込んだ。全員投票で多数がこの合理化を受け入れ、Aら若者たちは職場を去っていった。その後三里塚開港阻止決戦のために、私は1977年に職場を止め地区専従となった。
78年3・26空港突入の当日のこと。連帯する会が菱田小学校跡で決起集会を開き、旧精華学園で一時休憩した。
その時、A君のヘルメット姿を見つけたのだ。「オー、お前もやってきたのか。私のM製作所での苦労も報われた」と感極まり、意識が高揚したのを今でも鮮明に覚えている。彼は手紙で親になぜ闘争に参加するのかを書いたという。もっとも輝いていた青春時代の話だ。冥福を祈る。 (滝)