「企業城下町」

コラム「架橋」

  「企業城下町」こそ高度成長を支えた一つの軸であることは、1960年代「公害」問題が追及された時にその社会構造は明らかになった。見渡す限り田んぼという東北の米作地帯で育った私は、言葉や概念を知るよりも実態を垣間見た方が早かった。今回は実態を垣間見た時の経験を報告する。
 私が小学校4年の時、父親の姉の長男が広島県の福山市にある日本鋼管に就職した。つまり従兄が就職したのだ。小学6年の夏休みに私は彼の弟で私と同じ歳の従兄と二人で福山市を訪ねた。この旅行は、「企業城下町」、「夜行列車」「大阪と瀬戸内海」となにからなにまで初めてで、今でも鮮明に覚えている。旅行は10日間で、7月末に秋田を出発し日本海沿いに南下し翌朝大阪で山陽本線に乗り換えた。
 待ち合わせの福山駅に私たちが2時間程遅れたので従兄はいなかった。仕方なく住所録を見、駅前からバスに乗り従兄の社宅をめざした。従兄と会えたのは午後4時過ぎであった。駅からは距離というよりも同じような建物が一杯あり過ぎて時間がかかった。会うや否や入浴券を渡されそのまま銭湯に行かされた。湯上りの後、社宅(寮)で夕食をいただいた。帰るまで私たちは三食この食堂で飯を食い、朝晩は従兄もいっしょであった。従兄は昼食と風呂は会社で済ませていた。
 彼の職場は花形の溶鉱炉から離れた製品をトラックに積む配送部というところらしく、誰でも最初の2~3年間置かれるところらしかった。福山は秋田に比べると暑い所で、特に夜がきつかった。夕方になるとどの家も縁台を出し夕涼みという具合で、従兄が「よく映画を観に行く」というのが夕涼みを兼ねているのだということもわかった。
 一回だけ買い物のために繁華街に出かけたが、米屋といわず肉屋、どの店も「〇〇会社特約店」と書いた札が貼ってあるのが目についた。従兄の休日に列車とバスを乗り継いで、「尾道」というところに連れて行ってくれたが、とにかく階段と坂が多い所で閉口した。
 「尾道」が林芙美子の『放浪記』の舞台で有名な観光地である場所だと知ったのは高校に入ってからで、本を読んだのはその後であった。
 私は1974年に東京に出て来たが初めて住んだ所が横浜市の鶴見であった。その年の暮れ福山にいた従兄が私を訪ねて来、「私も鶴見工場に転勤になった」というので鶴見も日本鋼管の城下町であることを初めて知った。鶴見駅の西口には、総持寺などがあるが東口は、通勤時間帯は労働者で鋼管関係の労働者でいっぱいであったし、居酒屋はその関係者で溢れていた。
 私はこの時の旅行の教訓で、知らない町は、朝早く着くことが重要だと考え、活動を始めてからもその教訓は守った。博多、福井、岡山、金沢には東京から夜行で出掛けたのもそのせいだ。
 「企業城下町」とは、外から来る人には排他的で威圧的だといわれ、城下の人間には結構受けがいいという二重構造だといわれる。今も地方自治体、地方議会はその社会的性格を反映している。この点もわれわれがメスを入れるべき課題だ。「企業城下町」はなくなったのではなく、静かにスマートに生き延びている。(武)

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