銭湯物語 Ⅵ

コラム「架橋」

 地元の共産党区議Aは、週刊のニュースレターを配布している。ポスティングだけでなく、駅前に立って人々に渡している。雨の日も風の日も、37年間続けている。これこそ活動家の見習うべき原点。頭が下がる思いだ。
 「区政ニュース」と名付けたB4二つ折のリーフは、区議会の報告だけでなく、都営住宅や保育園・幼稚園の募集、各種の給付金の手続きなど、他の区議が伝えない貴重な情報を満載している。
 昨年12月。私は何気なく紙面を見て驚いた。毎週末に連れ合いと通っていた銭湯B湯が、3月末で廃業するというのだ。
 「ついにこの日が来たか」。私たちの衝撃は大きかった。過去に何度も書いたように、都内の銭湯は激減し、もはや絶滅危惧種となっている。通いつけの最寄りの風呂屋が閉まれば、次に近い銭湯に行くしかない。こうして区内の各方面から内風呂のない人々が集まってくるのである。さっそく真偽を確かめようと出かけていくと、女将さんは利用者への説明に追われていた。
 営業開始は1954年。すでに67年の歳月が流れている。銭湯名は経営者の名字かと思いきや、祖父の出身地・石川県能登半島の村の名だという。薪で沸かされた湯は火傷するほど熱く、子供は浸かれずに出ていく。店じまいの最大の理由は配管やボイラーなどの設備の老朽化。これまで細かな補修を重ねてきたが、水漏れなどついに危険な状態になった。
 カウンター前の狭いスペース。小さな椅子に常連の高齢者が座り、女将さんと長話をしていた。近隣には棟続きの長屋が細い路地と平行に軒を連ねる。内風呂のない土地柄ゆえ、長く重宝され、愛されてきた。
 事態は一報後に慌ただしく動いた。町会関係者らが実行委を立ち上げ「さよなら会」を企画した。イベントは廃業日の二日後。午前中は「撮影会」として、脱衣場や洗い場を解放し自由に写真を撮ってもらう。桶や看板、体重計などの備品は欲しい人に有償で譲る。午後は親父さんのトークと花束贈呈。地元音楽団との合唱会も盛り込んだ。東京新聞は、このイベント以外の経過を地域欄に掲載した。女性は初めての男湯を、男性は女湯でしきりにシャッターを押していた。
 親父さんは私を見つけると挨拶した。「残念ですね」。「そうだね。でももう限界なんです」。そうなのだ。ギリギリまで頑張り抜いてきたのだ。そんなことは女将さんから何度も聞いていたではないか。私は軽率な言葉を恥じた。口に出すべきは「長い間、本当にお疲れさまでした」という労いではないか。
 お孫さんらしき若い女性は、カウンターで来場者の記名を管理した。路上での案内役は区の職員。「お疲れさまです。お先に失礼します」。重いカメラを提げて、私は思い出の詰まった建築物を後にした。        (隆)

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