ハンセン病療養所宮古南静園

コラム「架橋」

 宮古島の北端、池間大橋に続く細長い岬の海岸線から少し小高くなった広場に、琉球赤瓦の色を模した屋根を持つ建物群が建っている。ハンセン病療養所宮古南静園である。広場からはコバルトブルーのラグーンが望め、その先にはサンゴ礁のリーフに打ち寄せる白波の不規則な列が、そして、その先には濃紺の海。
私たち「南西諸島への自衛隊配備に反対する大阪の会」では、宮古島を訪問する際、時間の許す限り南静園を訪問することにしている。
 園には人権啓発交流センター(宮古南静園ハンセン病歴史資料館)が併設されており、この園の歴史だけではなく、戦前のみならず戦後も長く続いた差別と偏見に基づく隔離政策の実体と、それとの戦いの歴史が豊富な資料と写真によって展示されている。
 事前予約をすれば、ボランティアガイドの人が資料館だけではなく、園内のフィールドワークをしてくれる。終生隔離政策の象徴である納骨堂、戦時中の埋葬地跡、堕胎された子どもたちの供養塔、監禁室跡地、見張り所跡、消毒小屋跡、貯水タンク・水汲み場跡、洗濯場跡、浜の水浴び場跡等々、それらは過酷な隔離生活を今に伝える証拠物件である。
 そして、太平洋戦争の記憶。日本軍の壕跡、職員宿舎に残る弾痕、避難壕(ぬすとぅぬガマ)。訪問者に手渡されるガイドブックによれば、1944年に約3万人の日本軍が宮古島に配備され、軍による療養所への軍収容が強化されたという。同年10月には宮古島初空襲、45年になると空襲は激しくなり、南静園は2度目の空襲を受け、死者を含む犠牲者を出す。
 園の職員は全員職場を放棄、入所者たちは自力で園の周囲に避難壕を掘って退避する。しかし、軍が使用するとして、その壕からも入所者たちは追い出される。ある入所者の証言、「園の周囲にたくさんの日本兵がいて、僕たちが開墾した畑に植えた芋やカボチャも盗んでいったよ。壕からは追い出されるし、野菜は盗られるし、もうひどかった」(ガイドブックからの引用)
フィールドワークの最後に、ガイドの人が私たちを浜辺に誘う。浜辺はそう広くはないのだが、白い砂が陽光に輝き、その先には明るい南の海が広がっている。
 「崖のあそこ、洞窟の入り口です。わかりますか。今は潮が満ちていて行けませんが、あの先にも洞窟はあります」。ガイドの人が浜辺の左手、潮に濡れ日影になって薄暗い崖の中腹を指さす。避難壕を追い出された入所者たちが、避難した「ぬすとぅぬガマ」である。
 入所者たちは空襲の合間の干潮時に、洞窟から綱を伝って降りて水を汲み、野草を煮炊きして生き延びた。栄養失調やマラリアで亡くなった入所者は、45年だけで110人。8月に終戦になったことを知らず、9月になってようやく園に戻った入所者もいるという。 (O)

前の記事

銭湯物語 Ⅵ

次の記事

出会いと別れ