入管行政との歴史的な闘い

コラム架橋

 6月9日正午過ぎに、参議院本会議で、改悪入管法が与党などの多数によって、可決成立させられた。参議院議員会館前では雨の中、大勢の難民・移民を支援してきた人たちなどが可決成立を許さないと集り、「採決ノー、入管法改悪ノー」とあらん限りの声を上げ、アピールを繰り返した。改悪案が通ったとは言え、難民・移民たちを強制送還させない、生活を守りぬくと、いう決意が語られた。4月始められた委員会での審議以降、私は3回の大規模な国会前集会や高円寺・渋谷のデモ、議員会館前行動に参加した。
 私が高校生の時の、1968年静岡県寸又峡で、いわゆる金嬉老事件が起きた。彼は朝鮮人差別をした静岡県警に自己批判を求めた。静岡地裁で裁判を傍聴し、親族から関東大震災で朝鮮人が理不尽にも虐殺された事実を知らされた。これが「朝鮮人問題」と関わる第一歩となった。
 1970年に東京に来て、チョッパリの会に参加。「チョッパリ」とは朝鮮語で「牛や豚のようなひづめの足を持つものとして日本人へのべっ視用語」をわざわざ会の名前として使い、植民地支配の責任を背負い、日本の民族排外主義と闘い連帯を求めた。
 1965年、金東希という韓国人陸軍兵がベトナム派兵を拒否し、日本に密入国したが逮捕され、大村収容所に収監された。そのまま韓国に強制送還されれば重刑が予想された。金東希は日本に兄たちが暮らしており、日本での生活を希望した。日本で救援運動がわき起こった。日本に亡命させるというより、韓国に強制送還させないことに重点が置かれ、結局1968年にソ連経由で朝鮮民主主義人民共和国へ送られた。
 「金東亡命 基本資料(二)」の中で、「1945年、解放朝鮮に帰国するが疲弊しており、生活できず、日本へ密航した。密入国・強制送還は何万回となく繰り返された。逮捕されず、潜在する密入国者は六万とも十数万人ともいわれる」とし、強制送還との闘い、定住外国人として受け入れるように入管行政との闘いが重要であることが指摘されている。この時の金東希問題東京連絡会議のメンバーを中心に新たに朝鮮問題全般を取り扱うチョッパリの会が作られた。
 その後「入管体制粉砕」というスローガンが掲げられ、入管体制粉砕東京実行委が作られ、東京反戦青年委員会、全国全共闘と共催で集会・デモが行われた。
 「労働する大衆自身が、入管闘争を自己の死活をかけたたたかいとしうるか否か? 入管体制によって全生活を踏みにじられ、生きるものとしての誇りを奪いとられている在日朝鮮人・中国人との間に、祖国なきプロレタリアートの血脈を結びうるか否か?」(出入国管理体制の成立過程Ⅰ)(越境編集委員会編・大逆文庫、1970)と問題提起した。
 私はその後、金東希の兄の家族と出会い親しく付き合った。江東自主夜中ではミャンマー・カチン民族の人たちが日本語の勉強にやってきた。ミャンマー軍事クーデター反対運動で関係が続いている。入管体制との闘いは具体的な生きた人間との関係だ。強制送還を許すな。        (滝)
 

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