「友を想う日々」
コラム「架橋」
久しぶりに故郷の南相馬市へ足を運んだ。中学からの友人から「どうもA君の様子がおかしい」「認知症にかかったみたいだ」と。最近の出来事を事細かに説明し、嫌がるA君を病院に連れて行き、出た診断結果は「治療しても完治することはない。遅らせることはできる」ということだ。だが本人は通院も嫌がりどうしようもないから、こっちに来て一緒に話そうということだ。
原発事故!妻と二人で車を走らせ飯館村を通過し川俣町が用意した避難所で一夜を過ごし、翌日山形方面へと向かったと聞いている。少しでも、少しでも放射能から逃れるために雪道を走り続けた。ようやく携帯がつながり、お互いの無事が確認できた時の嬉しさは表現のしようがない。6回も避難先を点々するなか、不治の病に侵された妻と一緒に故郷に帰ってきた。7年前に妻は他界し一人暮らしが始まった。
原発事故から12年の年月が流れたがA君は当時の話を避けようとする雰囲気があり、あえて聞こうとはしなかった。パークゴルフで腕を上げ今じゃ「優勝」するほどだと電話口で聞くのが常だった。7年目に入った「独居生活」。「夜ナッ。飯食ってからしゃべる人もいねから寂しいときもある」、墓参りの車中で突然彼の口から出た言葉。いつからか寂しさを口にするようになった。
統計や調査では判らぬ被害者一人一人の苦悩と心の中。真新しい研究施設、公共施設が立ち並び、「ロボット」が敷地内で動きまわる。「見せかけ」の復興が踊り、「科学万能主義」の学者・有識者が原発復権・再稼働を語る。〈原発さえなければ〉・・相馬市の酪農家が命を絶つ前に書き残した言葉だ。3・11以降、私の忘れえぬ言葉は〈原発さえなければ〉だ。エネルギー危機を叫びしたり顔で「原発は重要なエネルギー源」「世界最高の安全な原発」・・「御用」の冠を抱く「学者・知識人」が語る〈原発事故さえなければ〉原発を動かしても問題はないと喧伝する輩。南相馬市在住で一昨年4月に亡くなった詩人の若松丈太郎さんの「ひとのあかし」を読む。
「ひとは作物を栽培することを覚えた ひとは生きものを飼育することを覚えた 作物の栽培も 生きものの飼育も ひとがひとであることのあかしだ」「あるとき以後 耕作地があるのに作物を栽培できない 家畜がいるのに飼育できない 魚がいるのに漁ができない ということになったら ひとはひとであるとは言えない のではないか」。
東電福島原発事故は、私たち人間にその営みも含め変わらねばならぬことへの警鐘なのだ。
放射能汚染水を薄めて海に流そうとする「御用」学者・有識者の「知見」は「いつかはわからないがしぜんにどうにかなるだろうただちにえいきょうはないのだからうみにながしてももんだいはない」。50年先、100年先、1000年先の害を考えるよりも今の「実利」(今でしょ!)。
「避難計画の実効性」を問う女川再稼働反対の判決は「危険だというなら、あんた達(原告)が立証しなさい」と。まさに高所から市井の人を見下した態度が透けて見えた。ガス台、トイレに書かれた「開」「閉」さまざまな印の示すもの。退職後の二人で旅行、家での寛ぎ、ゆったりと流れる時間・・・。
〈原発さえなければ〉 (朝田)