暑い夏と母
コラム「架橋」
バイト先での毎朝「暑いですね。それしか言いようがないね」と、苦笑いしながらのあいさつだ。九州や秋田での豪雨と関東などでの猛暑。夏だというのに、蝉の鳴き声が少ししか聞こえない。野菜を配達している人は「野菜が3日ももたない。すぐに傷んでしまう」と嘆いていた。
秋田の大雨の翌日に、仲間に様子を聞いた。「自分の所は高台で大丈夫だがこんな大雨は生まれて初めだ」との返事。その後秋田で一万世帯が被害にあったとの報道が流れた。畑や田んぼに水が浸かれば、野菜などもやられているだろうから、農家の被害はすごいのではないかと想像した。
農家と暑さといえば、私の実家は1950年代から、温室メロンを始めた。夏は40度を超す熱さの中でも、温室の中での農作業が毎日ある。まだ、朝陽が出る「涼しい」4時半すぎに、温室に行き農作業を行う。日中は熱いので長めの昼休みをとり、夕方暗くなるまで農作業をする。
ずいぶん後になり、母から聞いたことだが、こうしたつらい作業はもっぱら母親がやり、出荷は父がやっていたそうだ。最盛期には温室を12棟もやっていたので、たいへんな仕事量だった。
父が70歳の時に、体を壊し出荷の作業が出来なくなったので温室を止めた。それから屋敷回りの畑で自分たちの食べる分だけの野菜を作るくらいだった。父が80歳の時に、認知症になり施設へ入所。家に残された母はひとり暮らし。それから、私は毎月、父への面会を兼ねて、母親への支援。母が緑内障で目が不自由になり、自分で料理するのが出来なくなっていた。介護士に来てもらい、食事や掃除の手伝い、そしてデーサービスの利用で何とかやれていた。私は実家に帰ると、専用の冷凍庫に1カ月分の総菜をつくり保管した。
戦中派の父と母。典型的な亭主関白の父。母はそんな父との関係に苦労した。母にとって、父からの「解放」が何よりのうれしいことだった。父は87歳で施設で亡くなった。
母にとって、このひとりの時間がゆったりできて、人生で最も良い時であった。私が用意した好きな万葉集や源氏物語、平家物語などの朗読のテープを聴くこと。目が悪いのでテレビはほとんど見ることなく、情報はもっぱらラジオだ。温室の仕事をしていた時も、ラジオはつけっぱなしで聴いていた。その分、世の中の動きや文化的な情報など、私も驚くほどよく知っていた。
屋敷回りや広い畑に、四季折々の草花を植えて楽しんだ。これは母が植えたというより、戦前まで「種や」だった趣味人の父が珍しい草木を買いそろえて植えたものだった。バラ、らん、梅に桜、椿、藤につつじ、コブシ、木蓮、ロウばい、水仙、ボケ、レンギョウ、紫陽花などなど。
母は昨年12月31日、ひとり生活の16年間に別れをつげた。亡くなる数カ月前に満面の笑みを浮かべた母の写真が私のそばにいつもある。 (滝)