謄写版印刷

コラム「架橋」

 謄写版印刷といってもすぐに分かる人は、相当年配者か教師や活動家くらいだろう。謄写版印刷は、いわゆるガリ版印刷のことである。印刷の歴史上では、木版、活版印刷、石版印刷に続く歴史を持ち、手頃な謄写版印刷機で何でも刷れた文明の利器であった。
 今回、ここでなぜ謄写版印刷を取り上げたというと、「街の歴史を知ろう」という聞き書きを行政から依頼されたことに始まる。戦後のさまざまな仕事をたどり、その経験者から経験談を聞くという企画の中で、謄写版印刷から始まり、今では完全にデジタル化させ大印刷会社に成長させた84歳になる会長にその話を聞いたからだ。
 その会長は、もともと文筆や読書が好きだったことから手に職をつけるために、1955年、16歳のとき職業訓練所に入所し謄写版印刷技術を学んだという。当時は、失業時代のまっただ中で定員20~30人にもかかわらず300人もの応募があった。入学試験は中学校の教室を借りて行われた。合格後は、6カ月の訓練期間があり、表面に蝋を塗った「原紙」に鉄筆で文字を切り、原紙を用紙の上に置き、ローラーを使って印刷する技術を学んだ。
 謄写版印刷は孔版印刷ともいい、その原理はヤスリ版の上に原紙を置き原稿を見ながら一字一字マス目を埋めていく。そして文字を切った部分に、ローラーでインクを引くと、その微細な切り口から用紙にインクがしみ出し、文字が転写される仕組みだった。いわば活字のイミテーションであるが、今も残る印刷物を見るとその文字は芸術的ともいえる。また、ヤスリ版の上で鉄筆を使う際に発生する音からガリ版印刷とも称した。まあ、こちらの言葉の方が一般であろう。
 人力による謄写版印刷は、活版印刷より廉価で、少部数、短納期であれば家内制手工業を絵に描いたように、昼夜を問わず作業を行い製本して納品。貴重な日銭になったことはいうまでもない。学校の文集、議案書、同人誌と仕事はいくらでもあったという。先述した会長も講習終了後、町の印刷所に就職し、技術を習得し独立。現在ある印刷会社の源となった。しかし、謄写版印刷の時代も仕事としては、60年代中頃までで、これにかわってタイプ印刷や写真植字による印刷に大きく変貌した。
 そんな中、突如復活したのが学生運動や労働運動下でのアジビラや機関紙だった。原紙も蝋引きからボールペン原紙に変わり、手作業のローラーを使った印刷機から輪転謄写機に変わっていった。
 それでもボクが大学に入学し、学生自治会書記局に入ったころはまだ謄写版印刷が全盛だった。謄写器の木枠に原紙を挟み、ローラーでインクを引いた原紙部分がバネ仕掛けで跳ね上がる。熟練していくと用紙一枚一秒くらいで刷れた。どこの自治会室や組合事務所にはそれぞれ常備され、情宣活動になくてはならぬ道具だった。
 ルポライターの鎌田慧さんも、青森から上京後、工場勤めを経て、神田にあった中央謄写学院印刷部に入社し労組を結成したと著書『ビラの精神』に書いている。そして、会社倒産、解雇後、早稲田大学の露文専修に入学。
卒業後、そして今も精力的に社会問題をテーマにしたさまざまなルポルタージュを手がけ、その著書は枚挙に暇がない。
 印刷会社の会長もルポの旗手も、その原点が謄写版印刷にあったことは興味深くうれしいことだ。そしてボクもその末席に座っている。    (雨)

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