藤村「夜明け前」を読む
コラム「架橋
【革命未だならず】
「夜明け前」冒頭の「木曽路はすべて山の中である」は、あまりにも有名な一節である。この文がいかに優れたキャッチコピーであるかは、現在でも木曽路を紹介するテレビ番組等で必ずと言っていいほど引用されていることでもわかる。
しかし、この小説は木曽路の観光案内書ではないし、この文がこの小説の主題を端的に表しているわけでもない。「夜明け前」とは孫文流にいえば「革命未だならず」、もっと厳密にいえば「ブルジョア革命未だならず」との意味である。
編集者であり、作家でもある高田宏氏は「ちくま日本文学全集」所収の同小説の解説で、「夜明けはこない」と題して、多くの作家が幕末から維新にかけての時代を描こうとしてきたが、「その中で群を抜いているのが島崎藤村の『夜明け前』と中里介山の『大菩薩峠』だ」と記し、「日本近代文学の二大巨峰と激賞」している。
私は十数年前に同趣旨の書評を新聞で読み、この小説を初めて読んだ。今思えばこの書評は高田氏のものだったのだろう。もっとも、「大菩薩峠」の方はその長さと、未完であることに恐れをなし、図書館で表紙を見ただけで済ませてしまった。
小説の主人公である青山半蔵は藤村の実父がモデルである。彼は馬籠宿の庄屋にして、本陣、問屋の主人であり、明治になってからは戸長(旧庄屋)となる。時代はペリーが浦賀に来航した嘉永6年(1853年)頃から明治維新、西南戦争を経て青山半蔵が亡くなる明治19年(1886年)まで、幕末から明治初期に至る日本史の激動の時代である。
小説にはこの時代に生じた様々な事象が記されているだけではなく、その事象が当時の社会と経済に、民衆の生活に与えた影響、とりわけ木曽路への影響と変化について極めて具体的に記されている。
この小文ではその多くを紹介することができないのだが、私が特に興味を引かれたのは天誅組の一揆の頃(1863年)、伊那谷には平田篤胤派の門人は36人、入門候補者は23人おり、その門人に武士階級は少なく、「その多くは庄屋、本陣、問屋、医者、もしくは百姓、町人であった」という記述である。
この事実は幕末の政治的、社会的矛盾に危機意識を持った層が、武士以外にも広範に存在したことを示している。半蔵も彼の仲間もその一人であり、平田派の門人であった。しかし、彼らは多くの歴史小説が描いているような偏狭な王政復古主義者ではない。半蔵にとっての王政復古とは、山の民が全ての山林に入ることができた昔に帰ることであった。
江戸時代に木曽地方を支配した尾張藩は山域を巣山、留山、明山に区分し、明山以外を立ち入り禁止にした。そして、明山でもヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキを伐採禁止にした。この政策が木曽地方の人々の生活をいかに圧迫したかは想像に難くない。そして、幕末の政治・経済危機の到来は彼らの生活を一層追い込んでいく。
こうした矛盾を背景に半蔵たちは王政復古運動に参加していく。しかし、実現した明治政府は明山をも含めて官有林として立ち入ることを禁止し、明山に入って枯れ木や草を採った者さえ処罰したのである。半蔵が期待し、奔走して実現した明治維新は尾張藩より過酷な政府を木曽谷にもたらした。半蔵たちは官有林への立ち入りを求めて、請願運動を繰り広げるのだが、一切聞き入れられることはなく、この渦中で半蔵は精神的に破綻していく。半蔵にとっての「夜明け」は遂に来なかったのだ。
(O)