『ゴジラ - 1・0』
コラム「架橋」
2024年が明けた。「今年も小欄をよろしく」などと呑気に挨拶している情勢でもない。1日の能登半島地震、2日の羽田空港での衝突事故。ウクライナ戦争、パレスチナ大虐殺。支持率の最低記録を更新し続ける首相岸田と自公政権に、自らの置かれている立場への理解と危機感はまったく感じられない。東日本大震災の発災直後から、時の民主党政権の対応を厳しく非難し、罵詈雑言を投げつけてきた人々である。人命への尊厳より、権力への煩悩が優先する救いようのない腐敗集団。失地回復の機会すら見過ごすような硬直した組織は、解体に値する。
閑話休題。昨年は多くの映画を観ることができた。その中の1本、「ゴジラ - 1・0」。敗戦直後の日本社会を前面に押し出した、シリーズでは異色の作品である。
第二次大戦末期。大戸島の守備隊基地に特攻機が一機、不時着する。操縦していた敷島少尉(神木隆之介)は機体の不調を訴えるが、島の整備兵は故障を発見できず敷島を疑う。生きて帰還した敷島は、焼け野原となった東京で「恥知らず」と罵られながら、乳呑児を抱いた典子(浜辺美波)と出会い、暮らし始める。玉砕と死が強いられた日本兵の葛藤が本作のモチーフである。
物語の序章。がれきの中で共同生活を始める2人は、直線的に結ばれるわけではない。典子が抱く明子も彼女の実子ではない。血のつながりを持たない3人が、混乱の中で懸命に生きていく。怪獣が登場する前に目頭が何度も熱くなる。
生きていくために敷島が選んだ仕事は米軍機雷の除去。彼は特設掃海艇「新生丸」で船長の秋津、技官の野田、船員の水島と共に、「呉爾羅(ゴジラ)」との対決に挑んでいく。
船員らが敷島宅で酒を酌み交わし結婚を勧めるが、彼は煮え切らない。そして典子が働き始めた銀座にゴジラが現れ、街を破壊し尽くす。典子が乗った通勤電車が襲われ、堀に落下するまでのシーンは、特撮の醍醐味を堪能できる。
シナリオは、秋津が政府の「情報統制」に憤る場面を繰り返している。敗戦に次ぐ国の存亡の瀬戸際でも、お上はあてにはできない。ゴジラに立ち向かうのは生き残った兵士や民間人、企業なのだ。
「敷島のために」と信念を抱き、寡黙な夫と娘を守ろうとする典子を、浜辺美波が熱演している。一緒に鑑賞した連れ合いは、敷島役の神木を「弱虫の役がうまい」と私に紹介した。なるほど、監督の山崎賢も神木に「命令に背いて撃たなかった奴として配役した」とインタビューで語っている。
敗戦から立ち直る経緯やがれきのセット、中小企業の新品の制服など、演出に違和感を持つ場面が無くもないが、特撮を超えた抒情詩的な傑作。あっという間の2時間だった。 (隆)