税、金納制の苛酷

コラム「架橋」

 私は23年11月18日号の「架橋」欄に、島崎藤村の「夜明け前」を借りて、明治維新政府がもたらした木曽谷の人々の過酷な運命について記した。しかし、過酷な運命に陥ったのは、木曽の山人だけではない。一部の富農層を除く、明治期の農民が陥った運命でもあった。明治期に自作農が減少し、小作農と地主層が増えたことはその証である。
 フランス革命の場合、封建地代は無償で廃止され、農民は自立した自作農になった。しかし、維新政府は零細農民を解放しないまま、その財政的基盤を彼らからの収奪に置いた。農民は江戸時代と変わらぬ重税を課せられたのである。
 この地租を全国からもれなく徴収するために近代的租税制度が導入される。明治5年(1869)には田地永代売買が解禁され、6年(1870)には地租が金納制へ変更される。こうして維新政府は日本資本主義発展のための本源的蓄積を自ら行い、軍需産業を基軸とした機械制工業に資本を投下していく。
 この過程で小農・零細農民は没落していくのである。この農民の没落に大いに寄与したのが地租の金納制への変更であり、田地永代売買の解禁であった。江戸時代の小農と零細農民の生活は半自給自足的生活であり、金とはほとんど無縁の生活であった。その彼らが無防備なまま貨幣経済、近代的商品経済の中に投げ込まれたのである。
 地租を払うにも、小作料にも、肥料代にも、種籾代にも、子供を学校に通わせるにも金がいる。彼らの耕作する狭小な田畑では、それらの費用を賄うことはできなかった。税金の滞納に加え、地主、肥料商人、米商人からの高利の借金によって、彼らは土地を手放すことになる。
 1町歩未満の農民の多くは、自作兼小作、小作兼自作、純小作人になり、一方で5町歩以上の耕地所有者が増え、30町歩から50町歩以上を持つ大地主=寄生地主も増加する。ちなみに1町歩は約1ヘクタールである。
 野呂栄太郎の「日本資本主義発達史」によれば、地租等の滞納のため所有地を強制処分された者は、明治16年(1883)~23年(1890)の間に36万7744人、内26万3965人は貧困故の滞納。没収された土地の総量は4万7281町歩、一人平均の滞納額はわずか31銭であった。
 勃興期の日本の産業資本主義の発展を保証したのが、明治期に形成されたこうした農村の構造であった。寄生地主制の重圧に苦しむ小農・貧農層から、労働力が供給されたからである。農村での彼らの生活のみじめさが、産業労働者の劣悪な労働環境と極端な低賃金を可能としたのである。
 もちろん、そうした農村の構造が後の朝鮮併合、中国侵略のバックグラウンドになったのは論をまたない。
 しかし、税の金納制への変更が民衆への苛酷な運命をもたらしたのは、明治期の日本に限った話ではない。ラテンアメリカでは金納制への変更が、先住民を絶滅の危機に追い込んでいくのである。その話は次回の「架橋」で。
(O)