わが良き友たち

コラム「架橋」

 再就職で現在の職場に来てから丸3年が過ぎようとしている。42年間勤めた技能的な前職から、私は迷うことなく抜け出す道を選んだ。65歳までの雇用延長で定年後に残ったのは、課長以上の元管理職ばかり。つまりそのほうが楽なのである。反対に底辺の組合員たちはサバサバして職場を去って行った。この現実が、彼ら彼女らの待遇がいかに劣悪であり、公正な勤務評価から外されていたかを物語っている。
 それでも。企業内の地位や職位がどうあろうとも、労働者たちはその「人間性」で結ばれることが少なくない。20歳代のハネ上がり言動によって私は、「あいつは共産党か」、「友達づくりをしているから創価学会では」などと陰口を叩かれもしたそうだ。「アカ」である私を貶めるための、常識では信じられぬ「冤罪工作」があったと数年後に聞いた。
 高卒後の「腰かけ」のつもりが還暦まで続いた理由は、一つではない。集会やデモ、組織活動をしながら、階級闘争とは縁も所縁もない同僚との関係が築けたことが大きい。自身の価値観を打ち明けた後輩もいた。最後まで隠し続けた先輩もいた。
 50歳代になると業務における采配の領域が広がった。社内ばかりではない。取引先、下請け、孫請けなどとの交渉を仕切るようになり人脈もできた。各種の決定に責任を持ち、成果が問われた。仕事の自由度が上がり、定年が近づくほど楽しさや充実感を感じたのは皮肉である。もっとも、母親が倒れ施設に入所したため、仕事を辞めて面会を優先する決意も固くした。かくして、嘘と欺瞞と怠慢のユニオンショップ御用組合からついに解放され、再び好奇心や「腰かけ」のつもりで再就職に臨んだわけである。
 大げさに言えば私は、人生を一からやり直すつもりでいた。配属された職場は、前年度の残業量に嫌気がさした職員(相談員・CW)が大量に退職していた。その補充のために同数の新規採用があった。私はここでも前職と同じように多数の「同期生」を得たのである。異なる点と言えば男女比に差がないこと。そして年齢が近いことも、私たちを急速に近づける要因になった。立場の違いにこだわらず、同期たちは一丸となって、協力して窓口対応に当たった。その時の上司は無口な硬派の人物で部下から慕われ、今でも語り継がれている。
 さて。昨年末から当部署に対する当局の合理化案が、組合を通じて話題に上っている。有無を言わせぬ人事異動である。しかもその対象が誰なのか、どこに行くのか、直前まで知らされない。
 不眠や脱毛を起こすようなストレスにあえぎながらも、懐かしい人々からの連絡が、数年ぶりにスマホに飛び込んでくる。お互いの感情や信頼関係は、思想や階級を超えるものかもしれない。(隆)

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