アルコールと労働の狭間で
コラム「架橋」
さて、2月に念のため行ったMRIの検査結果は、なんとシロと判明した。つまりまだ胸椎への転移は認められなかったのである。そのため経過観察となった。抗がん剤もホルモン剤も服用しないで済んだことは幸だったが、人生計画が大きく変わってしまった。転移してから余命5年が相場という統計から、これからの計画経済やら人生設計が白紙に戻り、死ぬまで労働に励まなくてはならないという事実が自分に突きつけられたのだ。
社長を交代し会長職についたものの毎日の労働実態はまったく変わらない。変わらないどころか、その負荷は今までにもまして重くなったような気がする。
生命保険で事務所の借金を少しでも減らして、安らかにあの世に行くことは叶わなくなった。長女は、その診断結果にほっとしていたようだが、反対にボクは奈落の底に落とし入れられたようだった。
がんを煩っている方々やご家族には贅沢で不謹慎な悩みだと糾弾されるかも知れないか、これがボクの本心だから仕方がない。そして、次の血液検査の際は、今まで上がり続けていたPSAの数値が反対に下がっていたのだ。担当医師は、首を傾げ「なにか食生活を変えましたか」と尋ねられたが、「何もかわりません」と答えるのがせいぜいである。確かに日本酒の量は減らしているが、アルコールの総飲量は変わらない。さすが医師に「アルコールが抗がん剤」とは、決して口が裂けても言えなかったが、数値が下がっているのはモニターのグラフで明らかだった。しかし、ゼロではないので細胞はボクの体内のどこかで密かに増殖していることは確かである。
転移していないことに、周りの人たちからは「祝福」されたが、「人生は太く短く」を信条とするボクには釈然としないものが残るのは当然だ。
話は変わるが、つい先週、社長兼編集長が運転する車で信州の安曇野を訪れ上田に一泊してきた。同行したライターの母親が師事していた油絵の先生が個展を開いていたからだ。安曇野まで高速で3時間半あまり。朝7時に出発して、11時前には到着したのだから鉄道より早い。鹿島槍や常念岳の白銀が指呼の近さで展望できたのはうれしかった。美術館を鑑賞して、松本で珈琲を一杯。この日は、宿泊する上田まで一滴のアルコールも口にしなかったのは、まったくの希有な出来事。「やればできるじゃないか」と言う独り言は、自分への激励だった。
上田は、ボクが大学時代の4年間を過ごした場所。信州の鎌倉とも呼ばれ、真田幸村で知られる上田城がいまも健在である。この時期に行われる「千本さくらまつり」の会場となり、桜こそ開花していなかったが、そのつぼみは赤くふくらんでいた。
その前夜は、上田で障害児施設などの施設長に就き定年を迎えた学友が、70歳になる今年、常務として返り咲く話を聞いた。そして5人で乾杯し、上田名物の「追い垂れの焼き鳥」で昨今の出来事を語り合った。卒業して50年近くたっても話題はつきない。行きつけだった1957年創業の珈琲店にも立ち寄り、ボクが「どこでも昔とまったく変わっていない。ぶれていない」とのお言葉には喜んでいいのか、成長していないのかと首を傾げた。
いつがんが転移するかは誰もわからない。でも、こうして元気にでかけられることは、もっと仕事をしろということだと思わずにはいられなかった。
(雨)