「花見を是非」
コラム「架橋」
今やサクラと言えば「ソメイヨシノ」。今から約30年近く前に、友人3人で信州の高遠に花見とシャレ込んだ。高遠のサクラはコヒガンザクラという品種で、別名「天下一のサクラ」とも呼ばれ、また「血染めザクラ」と呼ばれ、朱色である。
明治の廃藩置県の際、高遠藩の藩士は故郷を去るにあたりコヒガンザクラの苗を購入し、城のまわりに手植えしたのだそうだ。寒さに強く、幹まわりは約10㎝~15㎝と細く、真っすぐ信州の青空に突き出していた。花の朱は青空や雪山の白とのコントラストが美しく、強く感動した。この花見に出かけた3人は同じ年齢で、A君は沖縄の南條市の出身で、郊外の企業に労働者を運ぶトラックの運転手であった。B君は福島県の南相馬市の出身で、兄弟4人で小さな建設会社を経営しており、B君はその中で型枠大工の職人で若い労働者2人を使用していた。
3人は東神奈川駅に8時半に集まり、八王子駅で中央線に乗り換え、塩尻駅で飯田線に乗り換えた。飯田線の伊那北駅で高遠行きの路線バスに乗り換え、天竜川を渡り、高遠行のバスに乗り換え、天竜川を渡り高遠に向った。
この時初めて、両岸から引っ張られたロープに吊るした「鯉のぼり」を見た(今では珍しくもなんともない)。
高遠の城址公園では入口近くの「忠魂碑」の前にシートを敷き、前方に中央アルプスの雪山をながめ、後ろ側には北岳をはじめとする南アルプスの雪山をながめた。まさに花見としては一等地であった。高遠に出掛けたのは、A君が「雪のアルプスを見たい!」といつも叫んでいたので、それにも応えたのだった。「彼は小中の9年間で校庭が白くなる雪は一度も見なかった」と言っていたのを思い出す。
この信州の花見以来3人は毎年のように小田原、小田急線の渋沢、京浜急行の三浦海岸に花見に出掛けた。そして合言葉は「いつか吉野に行こう!」であった。だがA君は73歳で「口頭ガン」で亡くなり、B君は73歳の時に現場で倒れ、今日もなお入院している。最早、3人では「吉野どころか小田原にも行けなくなっている」。是非もう一度、「雪山にはえる血染めのサクラを見てみたい」。 (武)